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富士山麓の秦氏 その1


今日から幾多の謎に包まれた「富士山麓の秦氏」を開始します。内容の難しさから、秦氏シリーズにおける最大の難関となりそうな気配濃厚です。途中で挫折せずに完結できるか、やや心配でもあります。

秦氏の地域関連記事では、過去に「相模国の秦氏」、「東海の秦氏」、「秦さんはどこにいる?」をアップしてきました。そして「相模国」と「東海」のほぼ中間に位置するのが富士山麓です。この重要エリアに今まで手を付けなかったのは、既に書籍やネット上で様々な論考がなされていること、加えて一筋縄ではいかない場所であること、などの理由によります。

特に富士北麓は古代に富士高天ヶ原王朝があった場所とされています。超古代史の愛好家が熱中するトンデモ世界に足を踏み入れるべきか疑問もありました。宮下文書の元になる富士古文献(富士古文書)の記述は正しいのか、徐福は本当に富士山麓を訪れたのか、秦氏は本当に徐福の子孫なのかなど、整理すべき点も多々あるでしょう。

(注:秦氏は徐福の子孫であるとした文献は存在します。酔石亭主は現段階において、秦氏は徐福の子孫ではなく、秦氏が徐福伝承を持ち運んだと考えていますが、まだ確信はありません。徐福と秦氏を分別できない現状、本シリーズで徐福と書く場合、徐福自身あるいは徐福伝承を持ち運んだ徐福系秦氏のどちらか分けずに書いているとご理解ください)

また鎌倉や藤沢と違い、記述漏れがあったからと言ってすぐにもう一度見に行くこともできません。そうした事情で腰が引けて今まで放置していたのです。ただ、富士高天ヶ原王朝は神話的世界ですが、徐福に下ると伝説的となり、秦氏に至れば歴史的存在となります。

だとすれば、全体が地続きで連なっているようにも思えてきます。もしそうなら、神話的世界も含め「当たって砕けろ」で突っ込んでみてもいいのではと考え始めました。

このような経緯から、「富士山麓の秦氏」に関して書こうと決めた訳です。書くに当たってはできるだけ俯瞰的にまた体系的に議論を進めたいと思います。誰もが知る富士山とはどのような山であるのか、富士山麓で活躍した人物やグループは誰なのか、富士山麓で活躍した人物と各地域に伝わる伝承や富士古文書はどう関係するのか、などを立体的に浮き彫りにして、徐福や秦氏の謎に迫りたいと思います。

難しいのは登場人物が徐福や秦氏のみならず、武内宿禰、日本武尊、応神天皇の子である大山守皇子、源頼朝、果ては隠れ南朝の長慶天皇までいることです。全体をうまく整理できるか自信はありませんが、とにかく始めましょう。まずは富士山から…。

神話的世界から秦氏の歴史に至るまで、富士山は極めて重要な存在として位置付けられています。富士山は往古様々な名前で呼ばれていましたが、浅間山あるいは阿祖山とも称されていました。浅間、阿祖すなわちアサ、アソはマレー系のアサップ(煙)に由来する言葉です。とすれば、富士山麓にはまず南方の海人族が入り込んだものと思われます。徐福伝承が色濃く残る富士吉田市の明見(あすみ)は、海人系の安曇族に由来する地名とも考えられます。

安曇族に関しては以下Wikipediaより引用します。

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。


一方で、北方系のアイヌもこの地にまで降りてきています。富士山麓には彼らの遺跡が多数見られます。徐福以前の富士山麓から箱根にかけては、南方系と北方系のせめぎ合いが見られる地であったのです。

もちろん海人系やアイヌ系以前にも人々の営みの痕跡はありました。都留市の一杯窪においては、今から3万年以上前の石器が発見されています。1万2千年前頃の河口湖鵜の島や都留市宝地区(壁谷遺跡)にも古代の人々の痕跡が見られます。遠い古代から現在に至るまで、富士山麓には長い歴史が詰まっていたのです。

次に、富士山の歴史をうんと大ざっぱに紐解いてみましょう。

10万年前に活動を開始した古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、その噴火により山の標高は3千mを越え、関東地方に降り積もった火山灰は関東ローム層を形成します。

今からおよそ8万年から1万5千年前、富士の北麓には「古背の湖」(河口湖・西湖・精進湖・本栖湖が一体となった巨大湖)と呼ばれる湖が存在し、東麓には「宇津湖」(山中湖と忍野が一体となった湖)があり、現在の富士吉田市には古明見湖が横たわっていました。

1万1千年から7千年前には新富士火山の噴火が始まります。それまで爆発的な噴火を特徴としていた富士山ですが、この頃から溶岩を大量に流す火山へと変貌します。溶岩は遠く離れた猿橋まで流れました。猿橋の上流部には、当時の富士山から流れ出た溶岩(猿橋溶岩)が見られます。

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猿橋。

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猿橋から見た桂川の断崖。

この断崖は溶岩ではありません。丹沢系の海底火山による凝灰岩です。猿橋から猿橋近隣公園へと歩く途中に猿橋溶岩の柱状節理がみられます。

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猿橋溶岩の柱状節理。礫岩層の上に乗っています。

写真でもおわかりいただけるように、柱状節理の下は礫岩層となっています。つまり猿橋においては、丹沢系の凝灰岩の上に礫層があり、その上に溶岩があって三層構造となっている訳です。

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猿橋溶岩の先端部。写真の写りが悪い。

話を元に戻します。同じ時期、東麓の宇津湖は忍野湖と山中湖に分離、忍野湖は干上がって忍野八海へと変貌しました。また、古背の湖も河口湖が分離し始めるのです。

今から5千年から3千年前、富士山の北側に流れた溶岩は古背の湖に至り、湖を分断して本栖湖が誕生します。

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本栖湖です。以前に撮影のものです。

有史以前の富士山周辺には本栖湖、新背の湖、河口湖、明見湖、山中湖が存在していたのです。

3千年前の縄文時代後期には、4回の爆発的噴火が起こりました。約2千3百年前には富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が駿河湾へと流れます。(地震によるものとの説もあり)このように、古代の富士山は何度も噴火を繰り返し、山麓に住む人々はひたすら山の神に平穏を祈ったのです。

時代は下り延暦19年(800年)になると、富士山で大規模な噴火が起きました。平安時代末に書かれた「日本紀略」によれば、「噴煙により昼なお暗く、夜は噴火の光が天を照らし、雷のような鳴動が響き、火山灰は雨のように降り、川が紅に染まった」などと当時の模様が詳しく記述されています。

富士山北麓の徐福系秦氏居住区域は壊滅的な打撃を受け、その歴史の幕を閉じます。今回の「富士山麓の秦氏」シリーズは、主にこの時代までを扱うことになりますが、部分的には鎌倉時代も含みます。

続いて貞観6年(864年)には貞観大噴火(864~866年)が起こり、富士山の北西斜面から大量の溶岩が流れます。溶岩の一部は背の湖を西湖と精進湖に分断し、現在の青木が原樹海も形成されます。富士山とその周辺が私たちの知る姿になったのは、つい最近のことだったのです。ちなみに、東日本大震災と酷似する貞観地震の発生は貞観11年(869年)でした。

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精進湖です。これも以前に撮影のものです。

以上が、富士高天ヶ原王朝、徐福、秦氏などの背景として存在し続けた富士山の概要です。

                ―富士山麓の秦氏 その2に続く―
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