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富士山麓の秦氏 その3


前回で富士山信仰の変遷を大まかに書きました。その中にも「富士古文書」が出てきます。「富士山麓の秦氏」において解明を目指すのは、基本的に徐福と秦氏の謎です。この解明のためには偽書ともされる「富士古文書」(神話的、伝説的部分)に触れざるを得ません。

徐福はBC219年頃中国を出港、幾多の苦労の後富士山麓に渡来して、阿祖山太神宮の宮司から日本の超古代史を聞き及び感嘆します。おそらく、神代文字で書かれた文書なども目にしたのでしょう。

貴重な神代の歴史が散逸するのを恐れた徐福は、それらを漢字にて筆録。徐福とその子孫は徐福一族の歴史や渡来後の生活も書き加え、「富士古文書」と呼ばれる文書が成立しました。

この文書は、応神天皇の子である大山守皇子が改名した宮下家(阿祖山太神宮の宮司を代々務めた)に保存されていたため、「宮下文書」と称されます。

徐福は孝元天皇7年(BC207年)に死去、中室の朝(麻)呂山に葬られます。徐福の長男である福永は名を福岡と改め父の後を継ぎます。第32代福岡徐教の時代となって富士山が大噴火します。延歴19年(800年)のことです。神宮の関係者は桂川に沿って下り、現在の寒川の地に避難、寒川神社を創建して文書を保管しました。よってこの文書は「寒川文書」と称されるようになります。

寒川神社は弘安5年(1282年)の大洪水で社屋が流出したため、文書も失われました。しかしその文書は、建久3年(1192年)あるいは建久5年阿祖山太神宮の宮司である宮下源大夫義仁が寒川神社を訪問した際書き写し持ち帰っていたので、かろうじて現在まで伝わったのです。ところで、宮下源太夫義仁とはどんな人物でしょう?彼は関東平氏である三浦一族の人物で、宮司となったいきさつは以下の通りです。

三浦義明の長子義顕は、保元の乱・平治の乱に破れ、平治2年(1160年)富士阿祖谷に落ち、寒川神社の大宮司・宮下義太夫政仁の計らいで宮伴となり、翌年寒川大明神を元始にもどし富士八幡と改めた。そして、嫡子源重成を宮下源太夫義仁に改名させ富士七廟(富士高天ヶ原神廟)の大宮司を継承させた。

なお上記の経緯・詳細は「鎌倉・藤沢の義経伝説 その14」2011年7月16日を参照ください。

「同姓同名探しと名前ランキング」で富士吉田市の三浦姓と宮下姓を検索すると、その数が多いのに驚かされます。宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。三浦姓も山梨県全体で664人。うち河口湖町268人、富士吉田市99人と県全体の55%を占め、大きな地域の偏りが見られます。

この意味するところは明確です。富士吉田市においては、平安末期から鎌倉初期の歴史がそのまま現代まで地続きで繋がっているのです。特に宮下姓は応神天皇の子である大山守皇子の改名から始まっており、4世紀から現代までが地続きとなっています。そう考えると本当に面白いですね。

神奈川県における宮下姓は横須賀市が43人と最も多く、寒川町では3人しかいません。800年の噴火後本当に宮下氏が寒川に行ったのか疑問が残る数字です。なお三浦姓も横須賀市が133人と最も多く、これは納得できます。宮下姓が横須賀市に多いのは、三浦氏との関連と考えていいでしょう。

ここまでに、富士高天ヶ原王朝だの阿祖山太神宮だのと聞き慣れない名前が出てきました。
よほど詳しい方以外一体何のことだと疑問も出るでしょう。そこでもう少し詳しく書いてみます。

神武天皇以前の富士高天ヶ原王朝に関してはもちろん神話的要素が多いと思われます。次に阿祖山太神宮ですが、この神社は富士高天ヶ原七廟を管理・統括していた神社と考えられます。

富士高天ヶ原七廟とは、高座の神廟、寒川の神廟(福地八幡大神を祀る)、高燈の神廟、麻呂山の神廟(天照大神を祀る)、金山の神廟、山守の神廟、根元野の神廟で、徐福が埋葬された地は麻呂山になります。神廟は富士山麓の大室、中室、小室の間にあったとされています。(麻呂山は小明見に実在しますので追って訪問します)

これは何を意味しているのでしょう?多分、富士高天ヶ原七神廟とそれを祀り管理する阿祖山太神宮が富士高天ヶ原王朝の実体だったのではないでしょうか?

なお富士高天ヶ原七廟の「廟」とは、特定の人物を祀る建物を意味します。天照大神により創設されたのが阿祖太神宮で、七廟の始まりは別に天照大神を祀る麻呂山の神廟でした。不思議なことに、各神廟で祀られるのは「記紀」にも出てくる神々です。そして、徐福と思われる大山祇命を祀るのが山守の神廟で、寒川の神廟は国狭槌尊(くにさつちのみこと)、国狭槌媛の神霊を祀り、これが後の福地八幡大神とされます。

この辺は既に混同があるようです。なぜなら徐福が大山祇命であり、大山祇命は寒川比古命であり、福地八幡大神のはずだからです。(ややこしいですね…)また、祀られる神々が「記紀」に出てくる(=「記紀」を参考にしている)なら、時代的には8世紀初頭となり、富士高天ヶ原王朝の実体はかなり新しいものになる可能性もあります。(あるいは後世になって「記紀」の内容を借用した)

次に阿祖山と言う言葉に注目してください。阿祖山はマレー系海人族によって付けられた富士山の初期における名前です。だとすれば、富士山麓に居住していた海人系の豪族あるいは渡来一族の指導者を祀る廟所が富士高天ヶ原王朝だったと推定されます。

富士北麓に入植した徐福とその子孫(あるいは徐福系秦氏)は、新たに王朝の一翼を担ったとも考えられます。そして、王朝(=廟所)を宮司として守ったのが阿祖山太神宮の宮下家だったのです。王朝などと書くときらびやかな御殿を想像しますが、実態はささやかなものだったのでしょう。

ただ、寒川町も寒川神社も現存しています。その名前の元になるのが富士高天ヶ原七廟の一つ「寒川の神廟」(=福地八幡大神=徐福)ですから、神話的世界と現代が地続きとなっているのを否定はできません。ちなみに寒川は山中湖源流から忍野八海に至る桂川の古名と推定されます。

「富士古文書」には、「南湖(宇宙湖)熱湯押込、二湖登成利、寒川之谷川和高久也」とあります。宇宙湖とは山中湖と忍野八海が合体していた宇津湖のことで、それが別れて二湖となり寒川の谷は高くなったとあることから、寒川が桂川源流部と推定される訳です。その上流は古国川と呼ばれていたようです。

上記のように、偽書かもしれない「富士古文書」の内容が実際の歴史や現実と部分的にリンクしていました。もしそうなら、文書の内容全てを偽書として否定できない部分もあると思われます。文書の内容をある程度肯定的に見るには富士山麓の現場を訪問するとともに、実際の歴史との照合作業が必要となるでしょう。

                  ―富士山麓の秦氏 その4に続く―
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