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富士山麓の秦氏 その4


今日は、2011/11/11です。1が6つも並ぶのは珍しいですね。1が7つ並ぶのは百年後の2111/11/11ですから、今の私たちはほぼ誰も立ち会えそうにありません。

さて、前回まで富士山の概要や信仰の変遷、富士高天ヶ原王朝と「富士古文書」など徐福登場の前提となる部分を見てきました。今回は徐福に関して中国側の文献から見ていきます。

徐福に関する最初の資料は司馬遷の「史記」に記載されています。それによると、徐福は始皇帝に、海上に仙人の棲む三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)があるので、不老不死の妙薬を求めたいと上申。永遠の命にあこがれる始皇帝はこれを許可しました。

一般的には、三神山のうち蓬莱山が日本であると考えられています。よって徐福は日本に渡来したとされます。しかし三神山は渤海に浮かぶ島とされており、大陸のすぐ近くです。だとすれば、蓬莱山=日本説は推測あるいは希望的観測にすぎません。徐福が日本への渡来を上申した記述は「史記」のどこにも存在しないのです。

五代後周時代(10世紀半ばごろ)の「義楚六帖」には、「徐福は日本国の富士山麓(=蓬莱山麓)に居住し、子孫は秦氏を称している」との記載があります。これは義楚が直接日本で確かめたものではなく、当時大陸に渡った日本僧弘順が顕徳5年(958年)に語った内容を義楚が書き記したものです。この伝聞による記述が日本に逆輸入され、それ以降日本側で徐福渡来説が急速に広まったと思われます。

「義楚六帖」における記述は伝聞ですが、10世紀の日本において、そのような伝承が語られていたのは事実だと思います。語ったのは多分、徐福系秦氏だったのです。

一方中国側においては、1982年江蘇省に徐阜村(徐福村)が発見され、徐福の実在とその子孫も確認されました。子孫の系図には徐福が不老不死薬を求め船出して帰ってこなかったと記されています。その事実から、中国の研究者の多くは徐福の実在と日本渡来を確信しているようです。

しかし徐福の渡来は日中の文献にあるのみで、日本において証拠となる遺物は何も出土していません。だとすれば、彼は日本に渡来したかもしれないが、渡来していないかもしれないと言うのが出来得る精一杯の表現となります。

徐福の子孫が秦氏を名乗るのも怪しいと思われます。なぜなら、徐福の子孫は必ず名前に徐福の福を付けるとされているからです。それがいつの間にか秦氏になるなど考えられません。そもそも徐福の渡来と秦氏の渡来は、年数にしておよそ600年も離れているのです。

誰かが現代の日本にやって来て、自分の祖先は室町時代に渡来した人物だと言っても、誰も信用しないでしょう。この時間的ギャップは埋められそうになく、徐福と秦氏の存在は疑問や謎だらけなのです。

これらの謎に切り込んでいくには、現場を見るしかありません。今回からは富士山麓に残る徐福や秦氏の痕跡を探っていきます。彼らの痕跡が見られる場所は次の地域に分けられると思います。

1. 山中湖周辺地域
2. 富士吉田市内
3. 河口湖北部
4. 富士吉田市大明見地区
5. 富士吉田市小明見地区
6. 都留市から上野原に至る桂川沿いの地域。



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グーグル地図画像。上記地域はこの中に含まれます。

3の富士吉田市内は桂川の西側地域で、4の大明見地区は桂川の東、5の小明見地区は大明見地区の北で、桂川の東に当たります。大明見と小明見は拡大画像で示します。


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大明見、小明見を示すグーグル地図画像。

上半分が小明見、下半分が大明見となります。地図上では何もなさそうですが、このエリアが最も重要な場所となります。今までに出てきた富士高天ヶ原王朝、阿祖山太神宮などはこのエリアに含まれるはずだからです。

と言うことで、上記の順に従って各地域を見ていきます。まずは山中湖から…。箱根から御殿場、籠坂峠を越えて山中湖に入ります。

実は山中湖における徐福伝承は既に書籍やネット上で語られています。大ざっぱに書けば以下の通りです。

徐福は富士北麓に渡来し彼らの子孫は秦氏を名乗ったが、後世、羽田と改名した。山中湖の北側にある長池村は,以前は長命村と呼ばれており、蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついた場所とされる。よって長池村は羽田姓が多い。

文献的には、「義楚六帖」で徐福の子孫は秦氏を称したとあり、「甲斐国志」には秦を改め羽田の二字と為すとあり、一方長池地区は実際に羽田姓が多いので、これらが総合されて上記のストーリーが成立したものと思われます。もちろん根拠となる伝承がそれ以前からあった可能性は否定できません。

問題は、こうした長池村の伝承が正しいかどうかです。秦氏から羽田への改名は、豊島区の金乗院で秦氏から波田氏への改名例を見ていますので、有り得ることのように思えます。けれども前述のように、徐福の子孫が秦氏を名乗るのは疑問符を付けたくなります。

徐福の子孫に福秦なる人物が出て、以降秦氏を名乗ったなら連続性はありますが、そんな資料はなさそうです。論理的な整合性を求めれば、秦氏が徐福伝承を担いであちこちに移住したとするのが最も妥当な結論だと思えます。いずれにせよ、この問題を考えていると前に進めませんので、一旦棚上げにしましょう。

最初の徐福伝承地、山中湖長池地区は山中湖の北側にあります。


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山中湖長池地区を示すグーグル画像。

138号線を明神前で右に折れます。折れるとすぐ諏訪神社の案内がありますので、立ち寄ってみます。

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参道から見た諏訪神社です。イチョウの黄色が美しい。

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拝殿です。端正な佇まいです。

諏訪神社から138号線を跨ぐ赤い橋を渡ると浅間神社です。諏訪神社の境内地に浅間神社を勧請しているようです。つまり、富士山麓においては諏訪神社と浅間神社がペアになっている雰囲気があります。(両社の御由緒は今回の目的から外れますので省略)

諏訪神社を過ぎると沼尻です。

沼尻では湖から一本の川が流れ出ています。この川が、秦氏が京都の桂川から名前を持ち込んで付けたと思われる桂川でした。(源流部から明見地区の手前までは古名を寒川)

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桂川源流部。

両岸が一直線に護岸工事されているため、人工河川のように見えます。

この山中湖が秦氏地名である桂川の源となり、川は明見地区、都留市、大月市、上野原町など秦氏の居住区を経て相模川に名を変え、寒川神社の横を抜け相模湾に注いでいるのです。

山中湖長池地区に秦氏系の居住区があり、そこから流れ出る川が秦氏地名の桂川(源流部の古名は寒川)。桂川は相模川に名前を変え、徐福が真の主祭神と推定される寒川神社の横を流れる。よって秦氏は阿祖山太神宮の神官や徐福子孫とともに800年の噴火以降富士山麓から寒川の地に入り、寒川神社に寒川彦命=徐福を祀った。

そんなストーリーが組み立てられるのですが、話があまりにもうまくできすぎているような…。

この考えが正しければ、相模川の流れる「相模国」の地名さえも秦氏地名になる可能性が出てきます。それはもう少し後で検証してみましょう。

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山中湖の白鳥。羽の白が美しい。

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もう一枚。

白鳥の姿から、徐福は死んで後、鶴となって飛び去ったと言う伝承を思い出しました。白鳥ではなく鶴を撮影できたらもっと徐福が実感されるのですが…。まあ、富士山麓に幾多の痕跡を残す日本武尊は死んでから白鳥となって飛び去ったとされるので、よしとしましょう。長池地区に関しては次回とします。

               ―富士山麓の秦氏 その5に続く―
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