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富士山麓の秦氏 その6


今回はいよいよ山中湖長池地区に伝わる徐福伝承を実地に見て回ります。

「その5」で写真を掲載した茅葺屋根のお宅を訪問し、声をかけると女性が出てこられました。訪問の主旨を説明し徐福伝承についてお聞きしたところ、驚いたことにこちらのお宅(羽田家)が徐福伝承の中心になる家と判明しました。

ここは故羽田□□さんのお宅で、お話を伺ったのはその娘さんです。一時間程度あれこれお話しした結果を以下纏めます。(聞いた話を家に帰ってから纏めたものなので、思い違いや正確性に欠ける部分があるかもしれない点はお含みください)

長池地区にはイッケ(一家)という制度があり、これは先祖の位牌を持つ総本家を中心とした同族集団である。地区の住民は山林などの入会権を持っている。(長池地区は強固な村落共同体が今も生きている地区なのです)

長池地区は羽田4戸、天野3戸から始まった。元禄時代に菩提寺が地震か何かで破壊され、それ以前の古文書は何も残っておらず古い先祖の名前はわからない。

家の前の通りはこの地区で一番古い。山中湖が氾濫しても水は自宅まではこない。昔は多分家の少し手前まで湿地帯となっていた。それで長池と名が付いた。

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山中湖です。残念ながらこの時点では曇っています。

台風12号により道路とほぼ同じところまで水位が上がったそうです。訪問時点でもなお水位が高いのか、画像右手の湖面に立木が見えます。

自宅に向かって右手斜面に樹齢700年を越えるヘダの巨木があり、その傍らにある祠が大山祇神を祀る屋敷神である。ただこの家のみの屋敷神ではなく、同族集団全体の屋敷神である。(注:ヘダとはこの地方の呼び方でイチイの木を意味し、富士北麓に多く見られます)

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茅葺屋根とヘダの木。

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庭から見上げたヘダの木と屋敷神の祠。

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屋敷神の祠。

巨木の下には穴があり、中に石棺があってこれが徐福の墓ではないかと思われる。現在穴はふさがれている。昔は吉田の機織り業者が来て酒などを供え祀っていた。(注:甲斐で機織りを教えたのは徐福との伝承が機織り業者の間にあり、そのために祀っていたと思われます)

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徐福の穴があった斜面。

遂に徐福が伝承の中に登場!!書籍やネット情報ではない生のお話です。徐福の存在がぐんと身近に感じられました。内容には曖昧な部分もありますが、現代に生きる方からこのような伝承をお聞きできて酔石亭主も大興奮です。

また、山の上には山の神様を祀る祠があるとのこと。早速登ってみましょう。

屋敷神の祠まで一緒に登って頂きました。この場所からは富士山がよく見えるとのこと。確かに絶景です。

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祠辺りからの眺望。雲は切れつつありますが、富士山はまだ隠れています。

山ではイノシシが出没するため、防御柵が設けてあります。そこから先は一人で行ってみました。少し歩くとありました…。

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山の神様の祠です。

山の神様は大山祇神でしょうから、大山祇神=徐福の可能性がさらに高くなります。

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近くに古いお墓もありました。

山から下り、お墓についてお聞きしたところイッケの墓だとのことでした。また、先祖が寒冷で耕作地も少ない長池に来た理由は、富士山を礼拝するためとしか考えられないとされておられました。徐福伝承の地から富士山を眺望した後では、実に納得できるお話です。

改めて屋敷神の祠や穴のあった辺りに目を向けると、遠い昔を幻視できそうな気分になりました。実際の現場に立てば、その土地に積み重なったイメージから、徐福が来るのにふさわしそうな場所に思えてしまいます。

徐福の渡来は、不老不死を象徴する富士山(=蓬莱山)だけが目的ではありません。この地に自生する不老不死薬こそが真の目的でした。富士山麓では薬草となるコケモモや五味子が採集されます。

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コケモモ。写真はWikipediaより借用しました。

富士山の五味子は江戸幕府にも献上された様々な薬効を持つ薬草です。徐福が富士山麓に渡来した目的は、蓬莱山としての富士山礼拝に加え、そこに自生する不老長寿の薬草にあったものと思われます。

長池地区の徐福伝承は一定の成果がありました。しかし、この地の伝承は徐福関連だけではありません。

山には別の穴があり、何と鎌倉幕府の有力御家人和田義盛が隠れていたとか。羽田家の4代前の先祖がこの穴に入って金の茶釜と火箸などを持ち帰ったそうです。ただそれらの品は散逸し本当に鎌倉時代のものかは不明とのこと。

なお穴の中には他にも鎧とか様々なものがあったそうです。ところが先祖は間もなく死んでしまいました。これは間違いなく祟りだとなって、穴はふさがれてしまったとか。

和田義盛に関しては以下Wikipediaより引用します。

和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。三浦義明の孫にあたる。従兄弟に三浦義村がいる。子に朝比奈義秀ほか。
三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。
頼朝死去後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、その後の比企能員の変、畠山重忠の乱といった一連の御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で市街戦を展開するが、敗れて討ち死にし、和田一族も滅亡した(和田合戦)。

単なる和田義盛伝説だけでなく、裏付けとなるかもしれない遺物が出たとは本当に面白い話です。でも、鎌倉で死んだはずの和田義盛が富士山麓に逃亡し、よりによって山中湖畔の徐福伝承地に隠れたとは一体どうしたことでしょう?江ノ電に乗ると和田塚駅まであって、鎌倉では義盛は間違いなく死んだことになっているのに妙ですね。

上記の話は、衣川の戦いでは死なず蝦夷地へ逃れたとする義経北行伝説に近いものがあります。問題は、和田義盛の場合、義経伝説のような痕跡はどこにも見当たらないことです。一般的には、荒唐無稽だと笑われてしまいそうな話でしょう。

けれども、伝承には必ず根拠となる事実関係が背後にあるものです。では、どんな…?次回はそれを探ってみます。

               ―富士山麓の秦氏 その7に続く―
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