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富士山麓の秦氏 その11


大塚丘は日本武尊が東征中に富士山を遥拝した場所です。

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大塚丘全景。鳥居と山の上に小さな祠が見えます。

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大塚丘に設置された解説板。以下の内容が記されています。

北口本宮浅間神社の社記によると人皇十二代景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のおり、相模の国(神奈川県)足柄坂本から超えて甲斐の国(山梨県)に入り酒折の宮に行かれる途中この丘に登り富士の霊峯を遥拝したところと伝えられている。このことを知る里人は丘上に社殿を建てて浅間大神を祀り日本武尊を合祀した。その後延暦七年(七八八年)甲斐守紀豊が丘の北東に社殿を創立し浅間大神を遷座(せんざ)させたのが今の北口本宮富士浅間神社のはじめであり、丘上には日本武尊が祀られている。
昭和51年12月 富士吉田市教育委員会


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祠の覆殿。

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小さな石祠です。

酒折宮に関しては以下Wikipediaより引用します。

現在の酒折宮が所在する甲府市酒折は甲府盆地の中央北縁に位置し、八人山の南麓に立地する。周辺には笛吹川・釜無川支流の中小河川が流れる。現在の甲府市街や周辺地域は盆地底部にあたり古代律令制下では渡来人の集住により立評された巨摩郡西部から・前期国府が所在する山梨郡東部に比定される。


上記より、大塚丘が富士祭祀の山宮で北口本宮浅間神社が里宮と理解できます。富士吉田市周辺には日本武尊の伝承が数多く残り、河口湖の鵜の島も尊が戦勝を祈願した場所とされ、他にも幾つかの伝承地があります。日本武尊が東征の途中立ち寄っただけにしては、富士山麓に痕跡が多すぎると思いませんか?

尊の富士山麓立ち寄りには、多分蝦夷討伐以外の目的があったのです。では、どんな…。全くの想像ですが、尊には「富士高天ヶ原王朝」を壊滅させる隠れた意図があったのではと思います。それを暗示するような一文が「古事記」にありました。大意は以下の通りです。

尊が相模国に至った時、国造が偽ってこの地の大沼に悪い神がいると言った。尊はその神を見るため野に入った。すると国造は野に火を放った。欺かれたと知った尊が叔母から貰った袋を開けると火打ち石があった。まず草薙の剣で草を刈り払い、火打ち石で火を打ち出し、迎え火を付けた。戻ってその国造を切り滅ばして焼いた。それで、この場所を焼遣(やきづ=焼津)という。

一読して「あれっ!!」と思ったのは、焼津が駿河国(現在の静岡県)の焼津ではなく、相模国となっている点です。従って、酔石亭主が参照している「古事記」(岩波文庫)の注にも、「相模の国としているのはおかしい」と書かれています。

しかし、焼津が相模国であるのは正しいと理解すれば、全く別の光景が広がってきます。富士吉田市の明見は徐福伝承が色濃く残る地ですが、明見は古代には家基津(かきつ)と呼ばれていました。(明見に関しては後で詳しく書く予定です)


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明見周辺を示すグーグル画像。画面の中央に伸びる尾根の南側が大明見、北側が小明見。

では、この「家基津」を読み変えてみましょう。「やきづ」にならないでしょうか。しかも、当時の明見は甲斐国ではなく、相模国の一部でした。この点はWikipediaを参照します。

文献史学における部民の分布や考古学的知見から、天武朝期に東海道へ編入された「甲斐」は国中地方のみを指し、都留郡域はこれまで相武国造の支配領域であったとする説が提唱されており(磯貝正義「七世紀以前の甲斐と大月」『大月市史』通史編)、都留郡は渡来人勢力が立郡に関わっていると考えられている巨麻郡とともに、甲斐四郡でも官衙所在となった山梨・八代両郡と比べて特殊な立郡経緯が想定されている。

さらに、大沼とあるのを明見湖と比定すれば、「古事記」の記述と完全に一致します。「甲斐国志」巻之三十七川之部第十六之下には「桂川が山中湖の西北より発し、…中略…明見村の田に注ぎ又三流になって焼橋の下にて合す」、とあります。焼橋の由来は日本武尊が火打ち石で迎え火を打ったことにちなんでいるのです。

富士吉田市周辺に日本武尊の痕跡が多い理由。それは、彼が富士山の北麓にある富士高天ヶ原王朝討伐を目的としてこの地に入ったことによるのです。「富士古文書」に、徐福子孫の福信が尊に反逆した逆賊で、向かい火をたかれて返り討ちにあい、部落に逃げ込んだとあるのはその証明のようにも思えます。

でも、なぜ富士の王朝は正史から抹殺されたのでしょう?(以下はほとんど想像で書いています)

まず大和朝廷にとって別の王朝の存在など認められるはずがありません。しかも、あろうことか応神天皇の子供である大山守皇子(本来政権内部にいるべき人物)が、皇室の祖先を取り込んでしまった別の王朝に走ったのです。

激怒した景行天皇は日本武尊に討伐の命を下しました。なお景行天皇は応神天皇の前なので順序は逆ですが、日本武尊は伝説的人物であり整合性は求めません。(一般的に日本武尊は、東征に出向いた各時代の複数の人物を一人に纏めたものとされます)

徐福の子孫である福信も王朝側に味方します。武勇に優れた日本武尊を以てしても容易に決着はつかず、妥協が図られ、最終的に大山守皇子は名前を宮下に変え、阿祖山太神宮の大宮司となって細々と存続。最後には大明見の北東本宮小室浅間神社となってしまったのです。

日本武尊は監視のための宮を阿祖山太神宮近くに建設しました。徳川幕府が朝廷を監視する目的で設置した京都所司代のようなものです。この場所は、四方より下る坂下にある宮なので、「坂下の宮」と称されました。(坂下の宮は大明見にあったとされます)

大和朝廷としては、大山守皇子が別の王朝に走った事実を隠ぺいするしかありません。よって大山守皇子を、天皇の命に逆らう単なる反逆者と位置付けたのです。「古事記」では「大山守命の反逆」と言うタイトルで、大山守命が天皇の命に逆らい天下を得ようとして殺害されたと書かれています。

このような隠蔽工作の結果、後世「古事記」において、日本武尊は富士高天ヶ原王朝ではなく蝦夷討伐のために東征したと記述がすり替えられたのです。

さて、ここで北口本宮浅間神社が徐福系を軽く扱う理由が見えてきそうです。神社における祭祀の始まりは、「景行天皇の40年、日本武尊が東征の折に社殿西南に位置する大塚丘にて霊峰富士を遥拝し、里人が小祠を建て、浅間明神を勧請したことに始まる」とされています。日本武尊の富士山遙拝所がこの神社の始まりであれば、尊に逆らった徐福の子孫が祀る福地八幡社など重視されるはずがありません。そう勝手に解釈したのですが、いかがなものでしょう?

「古事記」では日本武尊と富士高天ヶ原王朝の関係を注意深く消し去ったつもりが、つい焼遣を正しい場所の相模国としたため矛盾が生じ、真相が露わになってしまいました。矛盾があるところには必ず隠されたものがあります。その隠されたものを掘り起こすのが謎解きの基本です。

この謎解きの基本からしても、焼遣(=家基津)は富士吉田市の明見に比定すべきです。「古事記」の行間から、隠された歴史がにじみ出ているように思えませんか?(注:大和岩雄氏は「古事記と天武天皇の謎」で「古事記」と秦氏の関係について書かれています。焼津の謎は、秦氏が「古事記」に埋め込んだ暗号だったのかもしれません)

                 ―富士山麓の秦氏 その12に続く―

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