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富士山麓の秦氏 その12

富士山麓の秦氏
11 /21 2011

「その11」で書いた大塚丘に関しネットでチェックしたところ、驚いたことにパワースポットとして数多く取り上げられていました。しかし、プレート三重点の富士宮は別格として、富士山周辺では阿祖山太神宮跡地が多分最強のパワースポットになるはずです。そうした視点のブログはまだないので、若干ミーハー的ではありますが、新たなパワースポットとして宣伝しようかとも思っています。うまくいけば、来年の今頃には聖地として数多く取り上げられているかも…。

ところで「その11」まであれこれ書いて、まだ秦氏は徐福の子孫が秦氏を称したと言う伝承の中でしか姿を現していません。秦氏地名らしきものも僅かです。やはり「富士山麓の秦氏」は難しいと実感されます。

また、最初に書いていた内容が後になって矛盾してくる可能性もありそうに思えます。整合性のある論理展開ができず、おかしな部分が出てくるかもしれません。その場合は、後で訂正あるいは辻褄の合わないままとしますのでご了承願います。では続けましょう。

北口本宮浅間神社を後にして上宿から137号線、139号線を下吉田駅方面に向かいます。駅の少し手前の宮川橋北詰信号を右折して福源寺東の信号を左折すると、すぐに福源寺に至ります。富士山麓の徐福伝承には必ず登場するお寺ですが、はてさてどうでしょうか?


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福源寺を示すグーグル地図画像。

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福源寺山門。

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福源寺本堂。

福源寺は元々真言宗伝燈の道場・聖徳寺であり、文安4年(1447年)に本願寺第八代蓮如上人が浄土真宗に改宗して福源寺と改称したものです。聖徳寺と言う寺号から推測できるように聖徳太子とゆかりがあり、寺には享保9年(1724年)に建てられた太子堂もあります。堂内には聖徳太子自筆とされる肖像画と木造が収められているとか。解説板もありますが、薄汚れてよく見えません。

解説板によれば、諸国政情視察の旅に出た太子が黒駒に導かれ、吉田の地に来たところ、自画像三幅を描き、そのうちの一幅を残したものだそうです。

甲斐の黒駒伝承に関しては以下Wikipediaより引用します。

平安時代には、黒駒伝承に聖徳太子(厩戸皇子)と関係させる説話が加わる。太子は7世紀初頭の推古朝を主導した皇族で、後に太子信仰の成立に伴い数々の伝説が生じている。『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。


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太子堂です。

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小野妹子命の石碑。

妹子の墓は大阪府南河内郡太子町にあるのに、なぜ福源寺に石碑があるのか不思議です。彼(女性ではありません)は聖徳太子の命により、「日出処天子」の文言が書かれた国書を携え隋に赴きました。多分それが理由で聖徳太子にゆかりのある福源寺に祀られているのでしょう。

そしてここにあるのが徐福の鶴塚で、徐福は死んで後、鶴になって飛び去ったと言う伝説の元になっています。内容を確認のため「甲斐国志」を開いたところ、巻之五十三古蹟部 第十六之上に以下のような記事が書かれていました。

里人云古ヘヨリ本郡ニ白鶴二羽アリ 富士ノ麓吉田、明見、忍草等水辺ノ地ヲ求メ常二遊ベリ 本ハ三羽ナリ 元禄十一年戊寅三月一鶴死ス 里人公庁二訴ヘ令トシテ下吉田ノ北原二埋メ塚ヲ築キ鶴塚ト号ス 今尚存セリ 蓋シ郡名ノ起ル所ナリト云

里人が言うには昔から本郡に白鶴が二羽いた。富士の麓吉田、明見、忍草など水辺の地を求めて常に遊んでいた。元は三羽いた。元禄11年戊寅3月一羽の鶴が死んだ。里人は役所に訴え、下吉田の北原に埋め塚を築き鶴塚と号した。今もなお鶴塚は存在している。思うにこれが郡名の発祥であると言う。

これは妙ですね。徐福はどこにも出てきません。単に鶴郡の地名由来が書かれているだけ…。古蹟部の記事では鶴が徐福の化したものとは確認できないのです。仕方なくまた分厚い本をチェックします。ようやく見つけた「甲斐国志」巻之七一神社部 第十七ノ上には、以下のように書かれていました。

徐福白鶴二化シテ今二富士山下二棲ム事ハ古蹟部二詳二セリ
徐福が白鶴に化して今に富士山の下に棲むことは古蹟部に詳しく書かれている。

神社部の記述と古蹟部を突き合わせると、鶴が徐福の化身であるとわかります。

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鶴塚です。文字が刻まれていますが写真では良く見えないので、拡大します。

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鶴塚と刻まれていました。

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鶴塚碑。

碑文がはっきり読めません。再度「甲斐国志」でチェックします。巻之八十九仏寺第十七ノ上に以下の記載がありました。(関連しない部分は省いています)

峽州有鶴郡、其地南接于富岳ノ趾相伝、孝霊帝時、秦徐福結伴、求薬東海神山、逮到于此、以為福壌也、遂留而不去、後有鶴三雙、居恒遊止郡中、時人以為福等之所化、従孝霊而至元禄、凡二千有余載、而一鶴殯、其骨於郡之大原庄福源寺、号為鶴塚焉

なかなか文面が難しいのですが、大意は以下の通りと思います。

鶴郡の地は南が富士山の麓に接している。考霊天皇の時代、秦の徐福は不老不死薬を求めて蓬莱山である富士山麓に至った。しかし薬草は見つからず、この地で亡くなってしまう。後に3羽の鶴がいて常に郡中にいたので、人々はこれを徐福の化身と見做した。考霊天皇から2千年以上後の元禄時代、鶴が一羽死んだ。鶴の骨を郡の大原庄福源寺に埋め、その場所が鶴塚と称されるようになった。

碑文の内容に「あれっ!」と思いました。鶴塚碑は江戸時代に建立されたものであり、徐福の生きていた時代とは1900年の時を隔てているからです。なお碑には寛政十年(1798年)と刻まれていました。(鶴が死んだのは元禄時代。それからすぐに塚が建てられ、およそ95年後に碑が建てられたのでしょうか?この辺の事実関係は不明です)なお、鶴塚が建てられた経緯・背景は以下の通りです。

徳川綱吉により、生類憐みの令が出された時代、寺の境内で鶴の死骸が発見されました。驚いたのは寺の住職と村人です。令により鶴の捕獲が禁制となっており、下手をすれば村人から下手人を出さねばならなくなるからです。そこで、この鶴が徐福の化身であるとして、言ってみれば罪から逃れる方便として徐福伝承を利用し、役所に願い出て鶴塚を建立したのです。

以上から、福源寺の鶴塚は徐福の名前と伝承を利用したに過ぎず、徐福とは直接関係ないことになります。福源寺を徐福伝承の地とするのは、間違いだったのです。ただ、福源寺の元が秦氏と関係の深い聖徳太子ゆかり聖徳寺であったことは、伝承が生まれる一要素だったのかもしれません。

それはさて置き、徐福を葬った場所から鶴が飛び立ったので、鶴が徐福の化身とされ、埋葬地が鶴塚とされる伝承は遠い昔から存在していたはずです。そうした伝承があったからこそ、福源寺と近隣村民が保身のために利用したのです。

では実際の鶴塚はどこにあるのでしょう?徐福一行は山中湖の湖畔に居住したとされます。だとすれば、塚は山中湖周辺にあるべきです。

と言うことで、山中湖周辺に鶴塚の地名がないかグーグル地図で探してみました。すると…、驚いたことに鶴塚がありました。

南都留郡山中湖村山中に鶴塚と言う地名が見られます。場所は山梨県南都留郡山中湖村山中224辺り。徐福の埋葬地はここであるとほぼ断定できそうです。(あくまで徐福が富士山麓に渡来したと仮定した上での断定です)


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鶴塚を示すグーグル画像。

地名は古代からそのまま残って伝わります。鶴塚の地名が山中湖にある以上、ここが徐福の鶴塚と推定されるのです。鶴塚一帯を車で走ってみましたが、塚らしきものは見当たりません。鶴塚からは離れますが、社がありました。

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社。山神を祀る神社でしょう。

「甲斐国志」にあるように、山梨県都留郡の都留(つる)は、徐福の鶴に由来しています。地名は、長い時代を軽々と越えるタイムマシンみたいなものとわかります。ところが最近では、歴史から完全に切り離された新しい地名が多くなってきました。地域のアイデンティティーを消し去る間違ったやり方だと思います。地域の歴史を物語っている古い地名は大事にすべきですね。

鶴塚近くを鎌倉往還が走っています。周辺に何かめぼしいものでもないかと思い歩いてみました。

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鎌倉往還にある山中口留番所跡。

甲斐、相模、駿河の国境に設けられた番所とのことです。

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往還沿いにある茅葺屋根のお宅。

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もう一枚。

立派なお宅と思ったら、羽田さん宅でした。もっと歩けばいろいろ出てくるのでしょうが、鎌倉往還はここまでとします。

               ―富士山麓の秦氏 その13に続く―
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酔石亭主

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