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富士山麓の秦氏 その14

富士山麓の秦氏
11 /24 2011

富士吉田市内を見終わり次に河口湖方面へと車を走らせます。目的地は河口浅間神社。

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河口湖です。青空の下で湖がより深い青をたたえています。

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もう一枚。

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大池公園のイチョウ。

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北原ミュージアム(昔のオモチャを展示)脇のハッピーデイズカフェ。

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テラス席。コーヒーを一杯飲みました。

河口湖周辺にも徐福伝承が存在しています。富士河口湖町の町誌によれば、徐福は河口湖の北岸に定着し、土民に養蚕、紡織、農業などを教え、湖畔で亡くなったとされています。(徐福の居住地は山中湖畔、河口湖畔、小明見の3カ所もあることになり、どれが本当だか悩ましい…)

徐福伝承に連動するように、富士河口湖町にも羽田姓の方が多く居られます。では、河口湖の北方に鎮座する河口浅間神社(所在地:南都留郡富士河口湖町河口1)に向かいましょう。

河口浅間神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

864年から866年に起こった富士山噴火による甲斐国での被害を、南麓の富士山本宮浅間大社が祭祀を怠ったためとして朝廷に抗議したことで、甲斐国にも浅間神社が創建されたことに始まる。これが甲斐国初の浅間神社の誕生とされる。


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解説板。

創建は貞観7年(865年)です。期待しながら、境内に入ってみましょう。境内でまず圧倒されるのは立ち並ぶ杉の巨木です。

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参道の巨杉。創建と同時に植えられたのでしょうか?

富士吉田市の北口本宮富士浅間神社より本数は少ないものの、幹の太さではこちらに軍配が上がりそうに思えます。

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二本杉。

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杉の根っこ部分。

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七本スギの解説板。

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拝殿。

巨杉のパワーに圧倒されつつ秦氏の痕跡を探します。「参道の巨杉」の写真を参照ください。参道の中央に小さな社が鎮座しています。河口浅間神社を参拝する前に、この神社を参拝しなければならない、そう主張しているような佇まいです。これが波多志神社です。

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波多志神社。

初代祝の伴直真貞を祀っているとされますが、名前からして波多志神社=秦氏神社であるのは間違いなさそうです。「甲斐国志」第七一巻神社部 第十七ノ上によれば以下の通りです。

秦大明神相伝秦徐福ヲ祭ルト云フ 因テ徐福ノ社トモ称ス…中略…至今子孫秦氏…中略…今川口、吉田両村神職ノ者トモニ秦氏ヲ称スル者多シ 蓋シ是徐福ガ子孫カ 但今改秦為羽田之二字

秦大明神は秦の徐福を祀ると言い伝えられる。よって徐福の社とも称す。今に至り子孫は秦氏称す。今川口、吉田両村の神職は秦氏を称するものが多い。思うにこれは徐福の子孫と言うことか。但し、今は秦を改め羽田の二字となる。

上記から、波多志神社=秦氏神社=徐福社となります。徐福と秦氏が繋がっていることを示す典型的な例と言えます。また伴直真貞も、自分は徐福の子孫である秦氏と考えていたのでしょう。

しかしその内容は、既に取り上げた「義楚六帖」に準拠しているようにも思えます。「甲斐国志」の上記と同じところに「義楚六帖」について以下記載あります。

義楚六帖曰日本国、又名倭国、在東海中、秦徐福将五百童男、五百童女、止此国也、東北千余里、有山名富士又蓬莱、徐福止此、至今子孫皆曰秦氏

義楚六帖によれば日本国、又の名を倭国が東海中にあり、秦の徐福が五百人の男女を引き連れこの国に止まった。東北千余里に山があり、富士または蓬莱との名がある。徐福はここに止まり、今に至る子孫は皆秦氏と言う。

これらの情報が集積して徐福の子孫=秦氏=羽田氏の流れが形成されたようにも思えます。

なお河口浅間神社の周辺には秦屋敷があったとされています。と言うか、波多志神社のありようからして、秦屋敷の敷地に河口浅間神社が建てられたものと見て間違いなさそうです。

また秦屋敷には大きな桧(ひのき)があったとか。昭文社の富士五湖周辺図を見ると、河口浅間神社の北に大桧と言うバス停が記載されています。ひょっとしたらと思い、行ってみました。すると…、ありました。

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大桧跡の石碑です。

裏には案内柱があり、これより東方秦屋敷跡と書かれています。

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案内柱。

「富士山麓の秦氏」を記事タイトルとしている割には、秦氏の痕跡が少なそうに思えたのですが、ようやく秦氏が登場してホッとした気分です。

ここまで、山中湖周辺地域、富士吉田市内、河口湖地区を見てきました。それでもなお、徐福と秦氏の関係については明確な答えを得られません。次回は疑問を抱えたまま、最も重要地域と思われる明見地区(大明見と小明見)に入ります。

                ―富士山麓の秦氏 その15に続く―
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酔石亭主

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