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富士山麓の秦氏 その15

富士山麓の秦氏
11 /26 2011

いよいよ今回から明見地区に突入です。「その15」でようやく最重要地域に入るのですから、随分と息の長いシリーズになっています。途中で息切れしないように、ゆっくり進めていかなければ…。

さて、明見の地名は海人系の安曇族に由来すると考えられますが、地元の伝承では別の由来があり、概略は以下の通り。

あるとき富士山が噴火して山麓一帯の村中が大騒ぎになった。ところが、明見村の者だけは、噴火なんてよくあることだから明日見ることにしよう、と言って平気で寝てしまった。ところが噴火に伴う溶岩流で地形が変わり、村から富士山が見られなくなった。

明日見るから明見とは、さもありなんと思えそうなお話ではあります。でも実際には一部の場所を除き、明見から富士山は見えるので、この地名由来譚は単なる昔話です。では大明見から…。


大きな地図で見る
大明見示すグーグル画像。

大きな地図を見る、で是非拡大してご覧ください。大明見がどのような地形の場所であるのかをご説明します。まず大明見の西側は桂川で区切られています。北側は杓子山からの尾根が細くせり出しています。この尾根は背戸山と呼ばれ、大明見と小明見を分ける境界となっています。

地形や日当りを考慮すると、背戸山の南斜面に古い痕跡がありそうに思えます。杓子山の谷から流れる小河川(古屋川)は、背戸山に沿って下り、尾根の先端部をぐるりと巻いています。

南側も、高座山の尾根がなだらかな斜面となり、平地部分を挟む形となっています。これは正しく隠れ里的な構成と言えるでしょう。他者を寄せつけない場所に大明見地区は位置していたのです。

隠れ里的状況は現在に至るも続いており、富士吉田の方も明見第一駐在所の信号から奥にはほとんど入ってこないそうです。それほど大明見は特殊な地域だと言えるのです。(宿泊したペンションの方の情報)

そして南側緩斜面の麓に富士山北東本宮小室浅間神社が鎮座しています。神社成立の経緯はおおよそ以下のようです。(既に書いた内容も含まれますが再度掲載)

寒川神社に保管されていた「寒川文書」は洪水で消失します。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写していたので残存しました。「宮下文書」の成立です。「宮下文書」は小室浅間神宮の宝物として保管され、大宮司である宮下一族が代々これを守り伝えました。それが現代にまで伝わり富士高天ヶ原王朝に関して様々な議論がある訳です。なお小室浅間神宮とは、現在の大明見にある北東本宮小室浅間神社のことです。

以上から、富士山麓の超古代文明(と称されるものの実態)の流れが見えてきます。

「その5」で纏めていますが、阿祖山太神宮と富士七廟が富士高天ヶ原王朝の真の姿でした。そこに徐福(あるいは徐福の子孫、あるいは徐福伝承を担ぐ徐福系秦氏)が入ります。徐福の第四代目の福仙は、阿祖山太神宮の神官に任ぜられ、子孫はこれを継承しました。

応神天皇の子である大山守皇子は阿祖山太神宮の大宮司となり、子孫は宮下姓を名乗ります。神官と宮司の違いがわかりにくいので、以下Wikipediaより引用します。

神官(しんかん)とは、国家の官吏として、何らかの神に仕える、または神を祀る施設に奉職する者のことである。現在、日本には神官は存在しない。日本の神道に関しては、古文献に神職(神社の祭祀や事務に従事する者)を指す語として用いられる例が散見され、現在も日常語では神職の通称として用いられている。

宮司(ぐうじ、みやづかさ)とは神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)である神職の職階(職名・職称)である。

上記からすると、徐福の子孫は王朝の官吏として阿祖山太神宮に奉職したのでしょう。宮下系は阿祖山太神宮の長と言う立場であったのです。以上から、太神宮には徐福系と宮下系の二つの流れがあったと考えられます。

大山守皇子と同時期あるいはそれ以降に秦氏が富士山麓に入植、徐福の子孫を自称して後に羽田氏へと改名します。今まで見てきたように、徐福伝承の背後には必ず秦氏の存在があります。しかし、富士高天ヶ原王朝への関与が見られないため、富士山麓において秦氏は主要プレイヤーではないようにも思えてしまいます。

大山守皇子の多分同時期に、日本武尊は富士高天ヶ原王朝の討伐を試み、徐福の子孫である福仙は王朝側に味方します。武勇に優れた日本武尊を以てしても容易に決着はつかず、妥協が図られ阿祖山太神宮は細々と存続。最後には大明見の北東本宮小室浅間神社となってしまったのです。

その経緯の一部分はこの神社で見ることができます。では、富士古文書に関係が深い大明見の北東本宮小室浅間神社に入りましょう。(似たような名前の神社があちこちにあり混乱しそうになります)


大きな地図で見る
北東本宮小室浅間神社の位置を示すグーグル地図画像。

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北東本宮小室浅間神社の鳥居です。

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神楽殿と拝殿。工事中だったので拝殿単独での撮影はしていません。

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裏に回ると蘇民将来子孫家が…。

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解説板です。後半の主要な部分を以下に記載します。

創祀は古く崇神天皇六年阿曽谷神社を鎮祭したことに始まる。
阿曽谷神社が富士高天ヶ原王朝の実体である阿祖山太神宮のことです。

応神天皇第二御子宮守を司さどり阿曽谷宮守神社と改称。
応神天皇の子である大山守皇子が宮守となったことが書かれています。

崇峻天皇乙酉二年厩戸皇子来り給いて富士山本宮阿座真明神と改称。貞亨三年古屋敷より引移し奉り福地八幡大神社を合殿に合祀奉る。
崇峻天皇の2年に聖徳太子が来て富士山本宮阿座真明神と改称。貞亨3年古屋敷より遷座して福地八幡大神社を合殿に合祀した。


聖徳太子まで大明見に来ているとは驚きです。まあ、福源寺にも聖徳太子の伝承があるのですから、大明見にあっても不思議ではありません。古屋敷とは大明見字古屋敷で、杓子山から西にのびる背戸山尾根筋の南側緩斜面一帯を指しているようです。

大明見の地には縄文時代から平安時代に至る遺跡が重層しています。その意味でも富士高天ヶ原と呼ぶにふさわしい場所と言えましょう。(現地の詳細は追って書きます)

そして、古屋敷にあった阿祖山太神宮が貞亨3年(1686年)に現在位置に移されたと考えられます。また福地八幡大神社を合祀するとあることから、阿祖山太神宮に徐福が関与していると理解されます。

以上から、富士高天ヶ原王朝の中心である阿祖山太神宮の所在地(阿祖谷)がほぼ見えてきました。大明見の古屋敷にある社を片っ端から当たれば、跡地の特定は可能と思われます。

次回は大明見から一旦離れ高知県に飛びます。

                  ―富士山麓の秦氏 その16に続く―

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酔石亭主

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