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富士山麓の秦氏 その16


これまで、明見や高天ヶ原と言った名前が何度も出てきました。話は飛びますが、高知県南国市には高天ヶ原山と呼ばれる丘陵があり、その麓には明見彦山古墳群があります。


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明見と高天ヶ原山を示すグーグル地図画像。

南国市のすぐ西は高知市で、秦氏地名が数多くあるのは以前にも書いています。だとすれば、南国市の明見や高天ヶ原の地名には海人系と秦氏の影響があるのかもしれません。


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高知市内の秦氏地名を示すグーグル画像。

高知には秦氏系の戦国武将がいます。秦川勝の子孫を自称する長宗我部氏です。平安末期に秦能俊が出て、信濃国更級郡から土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)に移り、地名をとって長宗我部と号しました。高知市の秦氏地名は長宗我部関連の可能性があります。

ところがです。秦泉寺廃寺は白鳳期に遡るもので、長宗我部以前に秦氏が居住していたのは間違いありません。秦泉寺廃寺跡は現在の行政区画で、高知市中秦泉寺字鷹通・字鍛冶ケ内に所在します。秦氏のシンボルである鷹や鍛冶まで地名として残っているのですから、いかにも秦氏系の居住区と思えます。

秦泉寺廃寺跡の南方には愛宕山が聳えており、山麓には愛宕山古墳群があります。京都の愛宕山は秦氏の山岳信仰の聖山であると大和岩雄氏は指摘しており、高知の愛宕山も秦氏の命名になるものでしょう。また、吾川郡春野町にある大寺廃寺跡も秦氏の建立とされています。「正倉院南倉大幡残欠」(絹製の幡)には以下のように墨書され、秦勝国の名が見えます。

                     長六丈
土左国吾川郡桑原郷戸主日奉部夜恵調施壹疋
                     廣一尺九寸

          国司史生大初位上田邊史祖父
天平勝寶七歳十月主當
          郡司擬少領无位秦勝国方


天平勝寶七歳は755年となります。

「日本書紀」の朱鳥元(686)年の八月十三日の条には、「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、土佐国が古くから秦氏の居住区であったことが窺えます。また、愛宕山の南には相模町があります。(高知市内の画像を拡大してご覧ください)

相模の地名由来に関して、嵯峨を見るで嵯峨見=相模の可能性を以前に指摘しましたが、京都の嵯峨から愛宕山を望むように、高知市の相模町も愛宕山を望む位置にあります。不思議な関連ですね。

そして秦氏のいるところ、徐福伝説があります。高知にこれだけ秦氏の痕跡があるなら、徐福伝承も存在しているはず。そう考えて調べてみると、ありました。

高知市のすぐ西には佐川町があります。佐川町史「郷土の伝説―鉾ヶ峯縁起」によれば、不老不死薬を求めて船出した徐福一行はまず佐賀県寺井津に上陸。しかし蓬莱山も仙薬もなかったため、再び出航。高知県沖で暴風雨に遭遇して須崎浦に漂着します。そして村人から虚空蔵山が蓬莱山だと教えられ、その山に登ったそうです。

虚空蔵信仰は大和岩雄氏の「日本にあった朝鮮王国」(白水社)に詳述されているように、秦氏の信仰です。よって、虚空蔵山にも秦氏の関与があるのは明らかです。徐福一行が上陸した須崎浦には富士ヶ浜があります。高知県の西端近くに位置する幡多郡には大月町もあります。つまり富士山周辺の地名と一致する場所が幾つも高知にあるのです。秦氏得意の地名持ち運び技ですね。


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佐川町を示すグーグル地図画像。

遠く離れた高知と富士山麓。両者の間にいかなる繋がりがあったのでしょう?二つを繋ぐ共通項は秦氏と安曇族しかありません。徐福が渡来するに当たり、安曇族が日本における寄港地などを手配したのです。

徐福集団の渡来は安曇族との連係プレーで行われた。だから、徐福の伝承地に安曇族の痕跡も色濃く残っているのです。ところで、河口湖町の南には勝山と言う地名があります。そして安曇族の本拠地である福岡県の志賀島にある志賀海神社鎮座地も勝山なのです。住所は福岡県福岡市東区志賀島勝山877。

志賀海神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島の南側に位置する神社。龍の都とも呼ばれ、伊邪那岐命の禊祓によって出生した底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の三柱(綿津見三神)を祀る。全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。代々阿曇氏が祭祀を司る。


福井県勝山市の藩医は秦魯斎で文化7年(1797年)に勝山で生まれています。勝山の秦家は藩の藩医を世襲していたようです。勝は「すぐり」と読むことから渡来系と結び付いているのです。秦王国の宇佐神宮辛嶋氏は渡来系氏族として、 勝姓を持っていました。

また「和田」も海人系の地名ですが、「足和田」と言う地名や足和田山が河口湖の西にあります。以上から河口湖全体が安曇族の影響下にあったと理解されます。河口湖畔には秦屋敷もあり、安曇族と秦氏が重なって存在しています。

面白いことに、秦氏が富士北麓において最初に入植した山中湖でも、長池地区と長池2組に挟まれて「和田」の地名があります。以上から、徐福一行も徐福系秦氏も海人系安曇族の手引きで日本各地を移住した様にさえ思えてきます。

ちなみに徐福伝承のある東三河はどうでしょう?東三河には渥美半島があります。渥美は安曇に由来しています。さらに豊川の古名は飽海川(あくみがわ)。飽海は安曇族の地名です。安曇族の後に徐福系秦氏が入植して、川の名を秦氏にちなむ「豊」に変えたものと推測されます。

海人系の海部氏が宮司を務める籠神社の祭神は籠之大明神ですが、秦氏によって豊受大神へと変貌させられたのは、「秦さんはどこにいる? その8」9月13日にて書いています。これと似たようなケースですね。

志賀海神社は龍の都と呼ばれますが、富士八湖においては、富士八大竜王として全て龍神が祀られています。福岡市東区三苫6丁目にある津見神社は、「中古より八大龍王また龍王と称す」とあり、富士山の八大竜王と重なっています。

海の神である綿津見神(わたつみ)、山の神である大山祇神(おおやまつみ=徐福)。「つみ」は住む人を表すので、海に住む人と山に住む人が見事に重なっているのです。「古事記」の海幸彦・山幸彦の対比にも似ています。

さて、高知を出た徐福一行は紀伊国熊野浦に到着し、その後愛知県の熱田、東三河を経て駿河国の浮島に辿り着き、富士北麓に居を構えたのです。徐福伝承地の地名に残された痕跡からも、彼らの動きがよく見えてきます。

                 ―富士山麓の秦氏 その17に続く―
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