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富士山麓の秦氏 その22


富士高天ヶ原王朝の最重要地点(阿祖山太神宮、七神廟の一つである麻呂山)は前回で見終わりました。次に重要な場所が小明見の向原に鎮座する富士浅間神社です。このシリーズの初めに、地元の伝承で徐福の子孫とされる羽田氏は本当に秦氏なのかと言う疑問を提示していますが、この場所に謎を解くヒントが隠されていそうです。

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向原の冨士浅間神社です。

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拝殿。


大きな地図で見る
神社を示すグーグル地図画像。

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解説石板があります。内容は重要なので以下記載します。

羽田一族隆昌記
羽田氏の始祖は人皇第八代孝元天皇の曾孫武内宿禰である 宿禰は徐福の学問に心服し其の子を門人として修業させたが成長の後は徐福の国の秦の意を取り入れて羽田八代宿禰と名付けた 父の武内宿禰は、景行天皇 成務天皇 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇の五朝に歴任して大功があった 
羽田八代宿禰は神功皇后摂政五十四年の時 誉田別尊の二皇子明仁彦政本彦を守護して福地山(富士山)に来てこの地に止まった
延歴十九年福地山大噴火の後阿田津山の裏の麓である古原の要害地に七社明神大社の祈願所を創建し其の前方に館を立て其の右方に
真王神社 御祭神として大山咋命 別雷命 孝元天皇 武内宿禰を祀り
「再建に付き羽田八代宿禰を合祀」産業発展と子孫繁栄の祈願をなすこの神社は後に松尾神社と改め今日に至って居る 昭和四十一年一月十二日富士浅間神社炎上の折り松尾神社も亦炎上の厄に遭い有志深く之を憂い同四十七年五月松尾神社再建委員会を結成羽田一族貮百戸の浄財を礎にここに新社殿竣工の喜びを見るに至るも 依って羽田一族の隆昌記と再建の経緯を録して後世に伝う


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解説石板にある松尾神社。

解説石板の文面はやや不明瞭な部分もありますが、「富士古文書」の以下の内容から引いていると思われます。

時に、武内宿禰、大神宮へ奉幣にさて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。矢代宿殊は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。 徐福は武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。徐福は日本の古文史に興味を持ち、三十六神家につき、その口碑・伝言・文書などによって十二支談を作った。

武内宿禰は300年近くを生きたとされる伝説的人物ですが、それでも紀元後の話であり、紀元前217年頃に渡来した徐福とは直接の接点がありません。徐福の遠い子孫から教えを受けたとするのが精一杯です。

なお解説石板には「古原の要害地に」と記載あります。古原は麻呂山のある地域で向原の南に位置しています。だとすれば、麻呂山の太神社が向原富士浅間神社(松尾神社)の元宮と言うことになりそうです。

いずれにせよ、この石板には重要な内容が記載されています。解説石板の最初に、「羽田氏の始祖は人皇第八代孝元天皇の曾孫武内宿禰である 宿禰は徐福の学問に心服し其の子を門人として修業させたが成長の後は徐福の国の秦の意を取り入れて羽田八代宿禰と名付けた」とあるからです。

この石碑を建てた羽田さん一族は武内宿禰を祖先としていました。今までの流れでは、徐福→子孫は秦氏を称す→秦氏→羽田氏、となっていたはずです。

ところが解説石板によれば、羽田一族は武内宿禰の子孫であり、秦氏の一族ではありません。
しかし、松尾神社は京都の松尾大社の例を引くまでもなく、秦氏系神社です。

かなり混乱を招きそうな事態となりました。羽田氏は徐福子孫を称する秦氏の一族なのでしょうか?あるいは羽田氏は、武内宿禰の子孫であり秦氏ではないのでしょか?

富士吉田市の羽田氏は武内宿禰の子孫であるとして、山中湖長池地区の羽田氏は徐福の子孫を自称する秦氏が改名したものなのでしょうか?仮にそうなら、同じ羽田姓に二つの全く異なる流れがあることになります。

まず武内宿禰の子である矢代宿殊(=羽田八代宿禰)に関して見ていきましょう。彼は波多氏の祖とされています。

波多氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

武内宿禰の長男である羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。姓は臣のち朝臣。八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも表記される。大和国高市郡波多郷の地名に由来し、高市郡にあった延喜式内社の波多神社を氏神とした。祖の波多(羽田)八代宿禰は弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)とともに神功皇后による三韓征伐に従う。


もう少し羽田八代宿禰に関して調べる必要があります。「甲斐国志」で調べたところ「巻之百二十三 産物及製造」に以下の記述がありました。超分厚い本の最終巻です。

製造品 郡内絹 郡内トハ都留郡ノ自称ナリ、絹綿ノ事ハ、旧ト波多八代宿禰ノ事跡二拠ル、〈古蹟部二詳ニス〉八代ハ山背ノ義ニテ、富士山ノ北ヲ云、波多ハ絹綿ノ肌膚軟ナル義ナリ、秦氏ノ事古語拾遺二見ユ

製造品 郡内絹 郡内とは都留郡の自称である。都留郡の絹綿のことは波多八代宿禰の事跡による。八代は山背の意味で富士山の北のこと。波多は絹綿の肌触りが柔らかなことを意味する。秦氏に関しては古語拾遺に見られる。

山梨県八代町の町名と羽田八代宿禰の八代はリンクしていると考えて良さそうです。地名と人名がリンクしている以上、羽田八代宿禰の実在は否定できないと思われます。なおこの人物は、波多八代宿禰と羽田八代宿禰の二通りの表記がありますが、本ブログでは羽田八代宿禰で統一します。

さて、富士吉田織物協同組合のホームページによれば、以下のごとく富士北麓の織物技術は徐福が伝えたとあります。

富士吉田市を中心とした富士山の北麓は、約1000年前から織物が織られていた、まさに織物のふるさと。その歴史をひもとくと、実はさらに昔の2200年前以上にさかのぼることができ、中国から織物が伝えられたという伝説が残されています。紀元前219年、秦の始皇帝の家来の徐福がこの地に織物の技術を伝えたというもの。

機織りに関する他の情報も、おおむね富士吉田織物協同組合の徐福説に拠っています。しかし酔石亭主は、実在している人物の羽田八代宿禰説に軍配を上げたくなります。「甲斐国志」に「都留郡の絹綿のことは波多八代宿禰の事跡による」とあるからです。ただ、「甲斐国志」には羽田氏(波多氏)と秦氏の混同が見られます。うまく切り分けられていないのです。困りましたね。

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神社には神楽殿もあります。

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解説板。

小明見地区は以上です。なお明見の地名に関しては、阿曽(=富士山)が見える土地(阿曽見)が転じて明見になったものと思われます。阿曽は海人系の地名ですから、徐福以前の明見はやはり海人系の地であったのです。

               ―富士山麓の秦氏 その23に続く―
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