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富士山麓の秦氏 その25


今回も徐福の子孫と秦氏の関係です。「秦さんはどこにいる? その12(久我山の秦氏)」9月19日で、藤沢の徐福伝承がある妙善寺福岡家のお墓についてレポートしています。その中で、福岡家の祖先に秦太郎蔵人可雄と言う人物がいて、1419年に死去し秦野市今泉村の光明寺に葬られた旨書きました。

でも、少し考えると疑問が湧きます。妙善寺の福岡家はなぜ祖先が秦姓で、現在は福岡姓になったのでしょう?墓碑にはおおよそ以下のように書かれています。

「故人である粛政の祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州まで渡来して、富士山の山麓に居住した。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏と為すものは、徐福の一字を取ったものである。近くの地に秦野の名があるのは、一族の旧蹟に関係するものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である」天文二三年甲寅(一五五四年)一月十一日 福岡家累代の墓 福岡平一郎

これには重大な混同があると考えられます。まず、徐福の子孫の姓には必ず「福」の一字が入ります。それが秦姓になることはありません。徐福の長男は福永を改め福岡としているので、福岡姓は基本的に徐福子孫の姓と考えられます。800年の噴火で寒川に逃げたのも福岡徐教でした。

(注:墓碑は秦を姓、福岡を氏としています。氏は血縁、擬制を含めた同族集団を意味し、姓は地位や職掌を表す呼称です。秦の場合ですと氏は秦氏で姓では例えば秦忌寸などとなります。忌寸(いみき)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)で新たに作られた姓(かばね)で上から4番目となります。ただ墓碑の時代ではそのような区分で書いていないと思われます)

つまり墓碑の内容が、徐福→長男の福岡→現在の福岡なら問題ありません。徐福→子孫は秦を称した→現在も秦姓なら、秦氏が徐福を取り込んだとして辻褄は合わせられます。ところが福岡家の墓碑の内容だと、徐福→長男の福岡→現在の福岡の間に秦野の秦氏が割り込んでいる形となるのです。これを合理的に説明するにはどうしたらいいのでしょう?

前回で、「富士山麓に入った秦氏は徐福の子孫と婚姻関係を結んだ。それにより秦氏は、徐福を自分の中に取り込んで子孫と称することが可能となった」と書きました。この視点なら合理的な説明が可能になります。

藤沢市妙善寺の徐福伝承は、福岡徐教の子孫である寒川の福岡家と徐福伝承を持つ秦野の秦氏が1419年以降に婚姻関係を結び、名実ともに秦氏が徐福の子孫となったことを伝えているのではないでしょうか?

もちろんそれよりずっと以前に、徐福の子孫と秦氏が婚姻関係を結んだ可能性は十分にあります。(徐福伝承のある土佐、熊野、東三河、富士山麓のいずれも秦氏の痕跡が濃いからです)つまり1419年以降、先祖に倣った形で福岡家と秦氏の婚姻が再び実行され、現在の福岡家になったとも考えられます。

「秦さんはどこにいる? その12(久我山の秦氏)」で、「秦氏は徐福伝承を持ち運びながら移住を繰り返したので、いつしか自分たちの祖先は徐福であると言う話に転化してしまったのでしょう。その伝承が長く伝わったため、秦姓を福岡姓に改名してしまった、と理解されます」と書きましたが、その内容は上記のように訂正する必要があります。

いずれにしても、前回の検証から、富士山麓の徐福子孫とされた羽田氏は秦氏ではありませんでした。それでも長池地区の羽田氏は秦氏であるとしておきましょう。なぜなら、「甲斐国志」などの史料にそう記載され、しかも彼らは、徐福の子孫である秦氏が改名し羽田姓となったと言う思想を近年まで保持していたからです。

どうしてそうなるのか?それは秦氏の定義に依ります。秦氏とは、秦氏の思想を受け継いでいる一族を意味するのです。血脈が秦氏でなくても秦氏になれるのです。それはご都合主義的な議論だと反論が出るでしょう。でも、決してご都合主義ではありません。

この問題をユダヤ人の定義から考えてみます。古代から中世におけるユダヤ人の定義は、「ユダヤ教を信仰する人々」でした。であるなら、長池地区の羽田氏に関しても同様の視点から見ることができるはずです。よって、長池地区の羽田氏は秦氏だったのです。

同時に、富士山麓には徐福の子孫を名乗る一族、本流の秦氏、徐福系秦氏も居住していたのです。そしてこの時点で徐福の子孫と秦氏が婚姻関係を結んだ可能性もあるのです。

やはり、徐福に関して明確にせず、徐福伝承を秦氏が持ち運んだと言う以前の考え方は訂正すべきと思われます。

確たる証拠はありませんが、徐福は多分日本に渡来した。それからおよそ600年の後、秦氏が日本に渡来した。一部の秦氏は、徐福の子孫が日本国内を移動した経路を辿り各地を移動した。どの時点・どの場所かは不明だが、移動の途中で秦氏は徐福の子孫と婚姻関係を結んだ。これにより秦氏は徐福の子孫と自称できるようになった。これが、徐福系秦氏の実像と推定されます。

ではなぜ、徐福子孫と後に続く秦氏は富士北麓の地を拠点に選んだのでしょう?

富士山は蓬莱山であることがまず挙げられます。富士山の鬼門に当たる明見に富士高天ヶ原王朝があったのも大きな理由になるはずです。明見の地形も理由になります。大明見・小明見は平野がV字を横にしたような形で、開口部は桂川に面し、それ以外は山に囲まれた、守りに固い隠れ里的な場所なのです。だから彼らはこの地を重視したと考えられます。

でも、ここで待ったの声が掛かります。なぜ徐福と秦氏は大地の発する気が集中する陸上プレート三重点の富士宮を拠点にしなかったのか、その答えがないからです。この問題は、源頼朝も関係しそうなので別途検討してみます。

             ―富士山麓の秦氏 その26に続く―
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