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富士山麓の秦氏 その26

富士山麓の秦氏
12 /07 2011

「その24、25」で徐福と秦氏の実像を推理してみました。それでもなお、突っ込みどころや疑問点は幾つもありそうです。疑問を解きほぐそうとすると、別の部分でよじれが生じます。さらに踏み込んでも、歴史の迷路の中で混乱を増幅させる可能性すらあります。よって、酔石亭主の視点が正しいかどうかではなく、「このような見方があるかも」と言った程度でお読みいただければ幸いです。

前回で、富士山麓の現地調査は桂川流域を除きほぼ終了しました。しかし、まだ謎が残っています。徐福や秦氏は駿河湾の浮島に上陸後、なぜ気の集中する陸上プレート三重点(富士宮市)に拠点を設けなかったのかと言う謎です。気の集中する場所にふさわしく、富士宮には浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社が鎮座しています。まずこの神社の由緒から見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮である。富士山を神体山としている。
富士信仰の中心地である。浅間大社の略称が多くで用いられ、大宮浅間とも呼ばれる。大同元年(806年)建立で、東海地方で最古の社である。
社伝によると、第7代孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと伝える。
当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の時代に現在地の北東6kmの場所の山宮に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀ったという。


上記の中に山宮が出てきます。山宮に関しても以下Wikipediaより引用します。

山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は、静岡県富士宮市にある浅間神社である。富士信仰の祭祀遺跡でもある
富士山本宮浅間大社の元となる富士信仰の大神が最初に奉斎された場所で、大神が現在の本宮浅間大社に遷されることで「山宮」として関わってきた。その為、本宮浅間大社も含め、全国に約1300社ある浅間神社のなかで最も古いと考えられている。境内には遥拝所・御神木などがあり、祭祀遺跡としての形を残している。
富士山本宮浅間大社の社伝によると、日本武尊は東国遠征の途中、駿河国にいるところで賊徒の攻撃にあった。追い込まれた日本武尊は、富士の神(浅間大神)を祈念し窮地を脱することに成功した。尊はその神の恩恵から富士大神を祀ることとし、その地が山宮浅間神社であると伝えられている。

浅間神社の実質的な創始に日本武尊が関係しているとあります。尊は駿河国の焼津で賊徒の攻撃にあい、浅間大神に祈念したそうですが、焼津と富士宮では随分と距離があります。焼津には大沼もありません。やはり尊は明見の地で賊徒の攻撃にあったのです。

「山宮」に関してWikipediaには、「大神が現在の本宮浅間大社に遷せられることで「山宮」として関わってきた」とあります。でも山宮は、なぜ現在の富士山本宮浅間大社がある場所に遷座されたのでしょう?きっと理由があるはずです。

通常遷座地は、それ以前に古代人の祭祀地として聖なる場所であったケースが多いと見られます。富士山本宮浅間大社の以前にもこの地には社があったはず。そう思って調べて見ると、ありました。富知(ふち、ふぢ)神社です。ネーミングに「富士」以前の古さが感じられます。 

富知神社の所在地は浅間大社北東部で富士宮市朝日町12-4となります。創建は第七代天皇孝霊天皇の2年(紀元前288年)で、不二神社、福知神社、福地明神社などとも称されていました。大同元年(806年)坂上田村麻呂は浅間大神を山宮から現在の富士山本宮浅間大社の地に遷座したのですが、その際富知神社が現在地に遷されたようです。

富知神社が福地明神社とも称されていたことから、この神社の創建に徐福の子孫や徐福系秦氏が関与していた可能性があります。彼らは富士宮に来ていたのです。それなのに、社を残したままこの地を立ち去ってしまった。奇妙ですね。

彼らが富士宮を拠点としなかった理由。それを検討する場合、方位を考慮すべきと思われます。平安京の鬼門ラインは秦氏が設置しました。同様の観点から、徐福や秦氏が富士宮を拠点としなかった理由も見えてきそうです。

富士山は大噴火を繰り返す危険極まりない山でした。と同時に、聖なる山(=蓬莱山)でもあったのです。聖なる山の危険を避けるにはどうしたらいいでしょう?鬼門ライン(北東ライン)を設置して危険を抑えるしかありません。

大明見地区の検討で阿祖山太神宮が富士山の表鬼門に当たる点はチェック済みです。しかし、鬼門には裏鬼門があります。鬼門とは反対の南西の方角が裏鬼門で、この方角も忌み嫌われるのです。

そこで昭文社の山梨県地図を取り出し、大明見から富士山を経て南西にラインを引いてみました。すると、どこに到達するでしょうか?そう、富士宮です。鬼門の起点が裏鬼門に当たる富士宮でした。富士宮から蓬莱山である富士山を経て到達する表鬼門の地は、徐福子孫と秦氏にとってより重要だったのです。

よって彼らは大明見の地を選んだのです。偶然か必然か不明ですが、そこには既に海人系の阿祖山太神宮が鎮座していました。現在のこの場所には富士山の表鬼門を示す泰山府君大神の石碑まであるのです。

富士宮に徐福や秦氏の痕跡がない理由。それは富士宮が裏鬼門であり鬼門ラインの起点だったからでした。徐福や秦氏は気の発する富士宮に後ろ髪を引かれつつも、さらに移動を続け富士山の表鬼門に当たる明見地区に入ります。その結果、明見地区には徐福の痕跡が濃厚に残ったのです。

しかしです。ここでも大きな疑問が出てきます。表鬼門の地である富士高天ヶ原王朝(阿祖山太神宮)は800年の富士山大噴火で壊滅しました。富士高天ヶ原王朝など影も形もなくなったのです。

徐福子孫や秦氏が表鬼門を設置したはずなのに、無効力だったとはどうしたことでしょう?それとも、阿祖山太神宮は鬼門に位置していなかったのでしょうか?富士山麓における検討は終わったのに、なおも疑問が残ってしまいました。徐福子孫や秦氏が桂川を下り相模国に入ったなら、その過程を見る中で答えを得られるかもしれません。

次回からは桂川流域に探索の場を移します。シリーズの続きなので記事タイトルは「富士山麓の秦氏」のまま継続する予定です。

               ―富士山麓の秦氏 その27に続く―
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酔石亭主

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