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富士山麓の秦氏 その35

富士山麓の秦氏
12 /16 2011

今回は大幡(秦氏)が秦野に至るまでを探索します。ルートは道志村大渡(大幡)→中継地点→日向薬師→秦野となります。まずは中継地点を探しから…。

地図を睨んでいると、二つのルートが浮かんできました。道志村馬場から青野原に出て、宮ケ瀬より64号線を下り別所温泉、七沢温泉を経由して日向薬師に入るルート。もう一つは半原から相模川の支流である中津川に沿って下るルートです。両ルートの間には高取山(鷹取山)があり、移動ルート上に暗号化した地名を残す秦氏の習性から、二つのうちのいずれかに間違いないと思われます。

なおヤビツ峠に出るルート(現在の70号線)に沿って高畑山があり、秦氏が秦野に入るためこのルートも使用したことは間違いありません。それは「相模国の秦氏」で既に書いていますし、今回は大幡の移動ルートに沿って検討しているため横に置きます。徐福子孫や徐福系秦氏は桂川をそのまま下り、途中から名前を変えた相模川に沿って移動、寒川近辺に入ったと思われますが、これも大幡と関係がないので横に置きます。

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上記四つのルートを示す電子国土画像。赤線は大ざっぱに引いてあるので、単なるイメージとご理解ください。

画像左側から見て最初の赤線が、70号線でヤビツ峠を抜け秦野に直行するルート。画像左端に高畑山があります。次が64号線で別所温泉、七沢温泉を経由して日向薬師に入る想定ルート。その次が中津川沿いの想定ルート。最後が相模川沿いのルート。なお、画像上の高取山は経ケ岳の下ですが、昭文社の神奈川県道路地図では仏果山の上にも高取山があります。

さて日向薬師に至るための中継地としては、古代の痕跡の残る土地が最有力の候補となります。その視点から調べると、中津川沿いのルートに八菅神社がありました。画像で鳶尾山の北に神社マークがあるのがそれです。この地には何と日本武尊の伝承が残されていました。富士山麓でも頻繁に顔を出した人物が登場しているなら、有力候補地と見て間違いありません。早速行ってみましょう。


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八菅神社を示すグーグル地図画像。住所:愛甲郡愛川町八菅山141-3

厚木から129号線を北上すると、相模川と中津川に挟まれた一帯に下依知、中依知などと言った地名があります。依知秦氏と何らかの関係でもあるのでしょうか?

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中津川の河原から見た八菅山(はすげさん)です。

日本武尊に関しては「新編相模風土記稿」下之巻二、八菅山の項に以下の記載があります。

相伝フ日本武尊東征ノ時。此山ヲ望ミ形チ龍二似タリトテ。蛇形山ト名ケシトナリ。今山中二左眼池右眼池鼻池口池舌畑等ノ唱ヘアルハ。当時ノ稱呼残セルナリト云。

日本武尊東征が東征の時にこの山を望み、形が龍に似ていたので、蛇形山と名付けた。今も山中に左眼池、右眼池、鼻池、口池、舌畑などと言われる場所があるのは、当時の呼称が残っているからだ。(左眼池と右眼池は現在も残っており別途写真を掲載します)

ここにはまた神塚があり、日本武尊が鉾を立てたところで、五輪塔が建っているとのことです。蛇形山が現在は八菅山と号されている理由は、「新編相模風土記稿」によると以下の通り。

又八菅山ト号スルハ大宝三年。七社権現勧請ノ時奇瑞アリテ。名ヅケシト云。

また八菅山と号するのは大宝3年(703年)(修験道の開祖である役の行者がこの地を訪れ)、七社権現勧請の時、奇瑞があって名付けたと言われる。

奇瑞とはどのようなものか、七社権現の項を見ると以下の通りでした。(漢文で読みにくいので大意を書きます)

昔八丈八手ノ玉幡(ぎょくばん)が天よりこの山に降臨し、八本の菅根が忽然と生え出した。それ故に八菅山と称す。

玉幡とは高御座(たかみくら)の八角の棟の下にかける旗の形をした飾りです。メノウや水晶などの宝玉で飾られた幡なので玉幡と呼ばれます。幡が降臨したなら秦氏と大喜びしたのですが、そうは問屋が卸しません。富士山の噴火は800年で玉幡の降臨は703年。年代がマッチしないのです。年代は昔のことだからと目をつぶっても、ストーリー的に大幡との繋がりが見られません。困りましたねぇ~。

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八菅神社の鳥居です。

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八菅神社の拝殿。横長の社殿です。

八菅山は日本武尊のみならず役の行者まで登場する修験道の聖地でもありました。さらに応永26年(1419年)の八菅勧進帳によれば行基の開創ともされています。

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解説板です。玉幡の降臨が詳しく記されています。

さて、日本武尊、役の行者、行基と超有名人が関係する八菅神社であれば、秦氏が立ち寄らないはずがないと思えます。しかし、神社にそれを示すものは見当たりません。早速「新編相模風土記稿」で調べてみます。すると、ありました。下之巻二、八菅山の項の記事です。

山中二堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨ノ地ト云。

八菅山の山中には堂庭幡、幡之坂の二カ所があり、遠い昔に幡が降臨した地と言われている。

この幡は、八菅山の山名由来となった玉幡ではないと理解される記述です。以上から、幡(秦氏)が八菅山に飛来したと確認できました。日向薬師側でも「新編相模風土記稿」に簡単な記述があります。

縁起曰。神亀二年。幡天ヨリシテ降ル云々。

縁起によれば神亀2年(725年)、幡が天から降ってきたそうだ。

幡が日向薬師まで飛んだことを確認できる記述です。次は秦野です。「新編相模風土記稿」下之巻二をチェックしたところ、落幡村の項に以下の記述がありました。

往古。善波太郎当所ニテ。幡曼荼羅ヲ射落セシヨリ。地名起レリト云。

遠い昔、善波太郎が当所において幡曼荼羅を射落としたのが地名の起こりと言う。

日向薬師の伝承は725年ですから、富士山噴火の800年以前となります。落幡村の記事は鎌倉時代の伝説ですから、内容が変化しています。時代のずれはあるものの、幡の動きは桂川及び道志川流域の伝承に接続するものと見てほぼ間違いないでしょう。

でも、今一つ説得力に欠けそうに思え、ネット上で調べてみました。すると、藤沢市のホームページに中将姫の関連で以下の記載が…。

『新編相模風土記稿』によれば、次の所に中將姫に関わる伝承が残されている。以下は、愛川町の八菅山(はすげさん)と伊勢原市の日向薬師(ひなたやくし)、及び秦野市の落幡(おちはた)を結ぶ伝承である。「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院…字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者(八菅山は、修験の道場)たちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」と伝えられる。


日向薬師は寄進となっていますが、ストーリーはものの見事に繋がっています。道志川の大渡に飛来した大幡(秦氏)が東に向かえば津久井に出ます。津久井から中津川沿いに下ると、八菅山に至るのです。そこから大幡は南に下り、日向薬師に入ったと考えられます。次いで秦野方面に向かい、秦野市鶴巻において「落幡」つまり秦野に落ち着いたことになります。

問題は突然登場した中将姫ですが、以下Wikipediaより引用します。

中将姫(ちゅうじょうひめ、天平19年8月18日(747年9月30日)- 宝亀6年3月14日(775年4月22日))は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる、日本の伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。

当麻寺は二上山の東南麓に位置しています。二上山は八菅山同様修験道の行場でもあります。従い、中将姫云々は修験者によって持ち込まれ、付加されたのでしょう。よって上記の幡の伝承から中将姫の部分を除いても問題ありません。また中将姫は機織姫であり、秦氏に接続する要素があったとも考えられます。

ただ、「新編相模風土記稿」をチェックしても藤沢市と同様の記述が見当たりません。一冊の厚さが6cmもある本を4冊調べるので見落としもありそうです。藤沢市の記述は二次資料であり、「新編相模風土記稿」で見つけたら差し替えしようかと思っています。

落幡には落幡神社が鎮座しており、以下Wikipediaより引用します。

落幡神社(おちはたじんじゃ)は神奈川県秦野市鶴巻南二丁目にある神社。「落幡(おちはた)」は鶴巻の旧名であり「落幡」という地名に関しても伝承があり、“その昔、中将姫が織り上げたとされる大きく美しい幡(旗)がこの地に舞い降りたことからこの地は落幡と呼ばれるようになった”というものと“鎌倉時代の武将である善波重氏(太郎)がこの地で幡曼荼羅という妖怪を射落としたことから落幡と呼ばれるようになった”という二つの異なる伝承が存在する。


こちらにも中将姫が登場しているので、藤沢市の記述はまず間違いなさそうです。以上で、都留市から秦野に至る大幡(秦氏)の移動ルートが、大幡飛来伝承からほぼ完全に復元できました。これだけ見事に移動ルートが辿れるとは本当に奇跡的です。

なお「新編相模風土記稿」上之巻一に「神武帝東夷ヲ征スル時。山上ヨリ当国。眺望アリテ。嵯峨身ナル哉ト。詔アリシヨリ起レルト云フ」とあります。相模国の地名由来に関し、相模国に来た秦氏が嵯峨をしのんで「嵯峨見」と命名したと以前に書きましたが、それに近い記述となっています。

秦氏の移動ルートが非常に複雑になってしまったので再度整理してみます。

800年の富士山大噴火により、秦氏と徐福の子孫は桂川に沿って下り避難します。最初の到着地は富士山の真の鬼門に位置する都留市鹿留古渡(=小幡)でした。

次の居住地は大幡川沿いの一帯です。この地には大幡、高畑、切畑、加畑など秦氏地名が数多く残り、機神社までありました。続いて向かったのが大月市で、大月も葛野川も秦氏地名です。岩殿山の裏手には畑倉(=幡倉)と言う秦氏地名もあります。

猿橋において秦氏は二手に分かれます。猿橋から南下した一隊は幡野に入り、幡野山に八幡社を創建。朝日小沢から南に下り峠を越えて秋山街道に入ります。彼らは秋山街道から南に下り、山を越えて道志川に出ます。道志川沿いを下れば、馬場(長幡)から大渡(=大幡)の地に到達します。

秦氏は道志川をさらに下り、津久井から半原を経由して八菅神社に入ります。そこからさらに下り日向薬師に入り、日向薬師を出て秦野に入ったのです。

青野原から宮ケ瀬に入り、現在の70号線を南下するメンバーはヤビツ峠から秦野市に入ります。秦野は幡野の地名を持ち込んだものと思われます。ヤビツ峠から秦野に下る途中の大日堂には、秦川勝に関する石碑が残り、彼らの痕跡があります。詳細は「相模国の秦氏 その6」2010年4月27日を参照ください。(このルートには大幡の伝承がありません)

一方、大月からさらに桂川を下ったのは、徐福の子孫と徐福系秦氏です。彼らは相模原市藤野町小渕に入りました。そこで始皇帝の尊像を秦氏地名の鷹取山の大岩の下に納めます。尊像は慶長年間に村里に移され、江戸時代になり唐土大明神となったのです。この唐土大明神を祀るのが三柱神社です。詳細は「相模国の秦氏 その14」2010年11月19日を参照ください。

小渕を出立した一行は桂川が名を変えた相模川に沿って下り寒川町に入り、寒川神社を創建します。富士山麓から避難した徐福子孫は福岡徐教で、その子孫が寒川町に居住しているため同町では福岡姓が多く居られます。なお小渕から桂川を下り、青野原へ出てヤビツ峠を越え秦野に入った徐福系秦氏もいたものと推測されます。

藤沢市妙善寺にある福岡家の墓碑には徐福の子孫は秦を名乗ったと彫られています。これは秦野に入った秦氏と寒川の福岡氏が婚姻関係を結び、そのような記載が可能になったと想定されます。詳しくは「富士山麓の秦氏 その25」2011年12月6日を参照ください。

以上、800年以降の秦氏と徐福子孫の動きを復元してみました。これが正しいか確信はありませんが、今まで検討してきた諸要素を繋ぎ合わせると上記の考え方が最も妥当なように思えます。

35回も続いた「富士山麓の秦氏」はこれで一応終了とします。本シリーズでは秦姓や福岡姓の分布、大幡飛来伝承、秦氏地名の分布、富士山の鬼門ラインなど、今までにない視点から徐福や秦氏の謎に挑戦しました。一定の成果はあったと思いますが、まだ不十分な点もあり今後とも追及を続けます。近いうちに補足記事も書く予定です。

なお道志川沿いや秋山街道沿いは実地調査せずに書いています。機会があれば訪問し別途レポートしてみたいと思っています。
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酔石亭主

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