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白髭神社訪問記


八菅神社を見た後、伊勢原市にある白髭神社と幡が降臨した日向薬師を訪問しました。実はこのルート、修験道のルートでもあります。車で移動したのでは、修験もへったくれもありませんが…。

修験者たちは八菅神社から高取山、華厳山、経ヶ岳、仏果山、高取山の山々(低山ですが相州アルプスと呼ばれているそうです)を踏破し、辺室山から三峰山に、そして日向薬師から唐沢峠を経て大山へと至ったのです。八菅神社が起点となるのは、修験道の祖である役の行者が相模国において最初にやってきた場所だからです。


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各山を示すグーグル地図画像。八菅山は鳶尾山のすぐ上あたりです。

大山に至った修験者は塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳など丹沢の主峰で修行を続けたようです。酔石亭主も若い頃は小田急渋沢駅から鍋割山に登り、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳など丹沢主脈を踏破しています。檜洞丸は別途ユーシンから登りました。ヤビツ峠からも二の塔、三の塔、行者ケ岳、新大日を経て塔ノ岳に登っています。もちろん大山も登りました。

以上から、修験者ルートの一部は実地に歩いている訳です。上記の山の名前はその多くが修験に関係がありそうなものばかり。いずれ相州アルプスの縦走を試みたいとは思います。

余談はこれまでとして、まずは白髭神社から…。


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白髭神社を示すグーグル地図画像。

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鳥居です。

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茅葺の社殿。

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木鼻(きばな)が随分低い位置に…。

木鼻とは木の先端を意味し木端が転じたもの。社寺建築において、頭貫(かしらぬき)などの端が柱の外側に突出した部分を指し、獅子などの彫刻が施されます。

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扁額です。大理石に彫られているようで珍しい。

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神社から見た山里の光景。

白髭神社の鎮座する地域はかつて日向村と呼ばれていました。「新編相模国風土記稿」には、村内の薬師堂(日向薬師の事)境内を日向山と号することから、この村名が起こったとの記述があります。

同時に、倭名抄では当郡の郷名に「日田」があるので、こちらに由来するのだろうともしています。さらに比々多神社はこの地の郷名を以て神号とするが、日向は比々多の転じたものかもしれないとも記載しています。

要ははっきりわからないと言うことです。ただ、この地名には実に奥の深いものがあります。「古事記」における天孫降臨の際、天の八衢(やちまた)にいて天孫を先導する神が猿田彦でした。八衢は、天降りの途中にある方々への分かれ道を意味しています。

そして、九州日田市周辺には多くの日向と言う地名が残っています。天孫降臨は甘木周辺にあった邪馬台国が、豊葦原中津国である豊前国の中津に移動した経緯を描いていると思われます。その中継地点にあるのが日田です。また白髭神社の祭神は一般的に猿田彦とされています。

以上から、伊勢原市における日田あるいは日向の地名は明らかに猿田彦と関連があるとわかります。遠い昔、この地に猿田彦の子孫が渡来し九州における先祖の地名を持ち込んだのです。

「秦氏の謎を解く」で、秦氏が日本人を呪縛するに当たり、猿田彦は重要な役割を果たしていたと書きました。秦氏と猿田彦は深い関係にあるのです。だとすれば、大幡(秦氏)が日向山(日向薬師がある地)に降臨するに際し、猿田彦の子孫が協力したのかもしれません。

次に「新編相模国風土記稿」でチェックします。すると、以下のような記述がありました。

熊野白髭合社 村ノ鎮守ナリ神体共ニ木像 長各一尺四寸八分日向薬師ヲ本地佛トセリ。霊亀二年二月行基日向山ニ登り。薬師像ヲ彫刻セントスル時。此二神出現シテ。基ニ霊木ヲ與フ。依テ爰ニ祀レル由。薬師縁起ニ見エタリ。薬師堂別当宝城坊持

霊亀2年(716年)2月、行基が日向山に登り薬師像を彫刻しようとした時、そこに二人の神が出現して霊木を与えた。よってここに祀るとされ、それは薬師縁起に見られる。

二人の神とは熊野権現と白髭明神で、白髭明神は高麗若光とされ、神社の祭神となっています。(皇国地誌では猿田彦命、速玉男命が入っている)新羅に滅ぼされた高句麗の王族は日本に亡命、若光は朝廷から東国の開拓を命じられ大磯に上陸したとされます。大磯の高来神社や高麗山には若光の伝説もあります。

高麗若光に関しては以下Wikipediaより引用します。

666年(天智5年)高句麗の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(『日本書紀』)。
朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(『続日本紀』)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。…中略…
716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(『続日本紀』)が、若光もその一員として移住したのものと推定されている(新編『埼玉県史』)。
埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏の菩提寺。若光の三男とされる聖雲が建てた。聖天院・勝楽寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟があり、聖天院本堂左側には若光の銅像がある。

上記を総合すると、高麗若光は666年に来日し、大磯に上陸します。いつの頃か日向に移り住み、716年、行基に霊木を授けた後、埼玉の高麗郡に移住したことになります。若光は猿田彦を崇敬していたとされますが、そこからどんなストーリーが考えられるでしょう?

まず猿田彦の子孫が日向山麓に渡来し住みついた。そこに猿田彦を崇敬する若光がやって来た。若光が日向を離れる直前の716年、秦氏と縁の深い行基がやって来た。行基が日向薬師を創設するに当たり、若光は霊木(桂の木とされる)を与えた。猿田彦や行基と関係の深い秦氏が800年の富士山噴火以降にやって来た。と言ったところでしょうか。

白髭神社においては若光が中心人物のように思えますが、実際は猿田彦一族の存在が大きいと思われます。垂仁天皇の御代、猿田彦の子孫である大田命は、皇女倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて各地を流浪された時、姫を先導して五十鈴川の地を献上、伊勢神宮が創建されました。大田命の子孫が宇治土公(うじのつちぎみ)で、代々伊勢神宮に奉職していました。

猿田彦とその子孫は、上記のように様々な場面で天孫を導いた神なのです。そう言えば、白髭神社があるのは伊勢原市です。地名の由来は、元和6年(1620年)にこの地を開拓した伊勢出身の山田曽右衛門と鎌倉出身の湯浅清左衛門が伊勢神宮から祭神を勧請し、伊勢原大神宮(いせはらだいじんぐう)を創建したことによります。

山田曽右衛門はひょっとしたら宇治土公の関係者で、白髭神社がこの地にあることから、伊勢原を選んで開拓したのかもしれません。

猿田彦一族は、日田において天孫を先導し、伊勢において倭姫命を先導し、伊勢原において秦氏を先導したことになります。伊勢神宮に秦氏の関与が見られるのは既に書いています。奥深いところで全て繋がりそうな気が…。

今回は大風呂敷を広げすぎてしまいました。次回は日向薬師です。なお大磯の高麗山周辺は別途訪問してレポート予定です。
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