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呪術都市鎌倉探訪記 その10


本記事は2011年の3月4日にアップしたはずのものです。記事カテゴリを整理していたらこの記事が消えていたので愕然としました。探してもないものはないので、やむなく再度アップします。本記事はカテゴリ「呪術都市鎌倉探訪記」の「その14」の次に入れることになってしまいます。混乱を招きそうですがご了承ください。

今回は、小袋川の形が安倍晴明の屋敷の存在証明になるのかを検討してみましょう。「その9」で掲載した写真では全体のイメージが湧かないので、グーグル地図画像を再度参照します。

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グーグル画像です。

T字の下流部で今度はZ字のように曲がっています。この曲がり方もやや人工的な匂いがします。川の形を全体で見ると、柄杓のように見えませんか?柄杓は水に関連する道具です。ひょっとしたら、安倍晴明がある意図を持って川の流れを捻じ曲げたのかもしれません。例えばどんな意図でしょう?ここで「吾妻鏡」を開いてみます。

治承四年(1180年)十月小九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。明朝臣押鎭宅之符之故也。

大庭平太景義を奉行として、頼朝の住居建設が始まった。但しそれでは間に合わないので、当面は知家事兼道の山内の住居を移転し建築させた。この家屋は正暦年間に建てられ、いまだに火災に遭っていないのは、晴明朝臣が鎮宅の符を押したためである。

知家事とは鎌倉幕府の政所の職員の一つで、事務の担当職を意味します。正暦は紀元990年~995年で、安倍晴明の生没年は921年~1005年とされていますので、一応年代的なずれはありません。

次に、鎮宅の符という耳慣れない言葉が出てきますが、何となく意味が汲み取れそうに思えます。これは、お守り札のようなものと考えればいいでしょう。酔石亭主が子供の頃、かまど近くの壁に秋葉神社火防守護のお札が貼られていた記憶があります。鎮宅の符は同様に、火災など住居の災いを祓い鎮めるためのお札と言うことになります。

この御符が兼道の住居に貼られており、火災に遭うことがなかったので、縁起がいいと思った頼朝は兼道の家を移築したのです。安倍晴明がようやく鎌倉時代に接続してきました。

ところで、安倍晴明は単に護符を貼っただけではありません。当然、陰陽道における鎮宅の儀式を執行したはずです。それが鎮宅霊府神祭です。

この儀式は漢の考文帝に由来するのですが、北斗七星をはじめとする72の星神を祭るものとされています。

北斗七星と聞いて思い浮かぶものがありませんか?そう、小袋谷川の形です。柄杓の形とはすなわち北斗七星の形なのです。これで、安倍晴明のキーワードである[水]と[北]が同時に出現したことになります。

晴明は鎮宅霊府神祭を執行するに当たり、小袋谷川の流れを変えた、あるいは北斗七星の形となっている場所でこの祭りを執行したとは考えられないでしょうか?以上から次のような推理が成立します。

十王堂橋の傍らに十王堂と晴明石があるとは、そこに晴明の屋敷があったことを証明するものである。屋敷は柄杓形の内側と推定され、周囲三方を水に囲まれていたことになる。

晴明は水に最も関係が深いことからしても、この推理には妥当性があると思われます。

では兼道の自宅はどこにあったのでしょう?多分、北鎌倉駅から歩いて十王堂橋の手前、つまり川を挟んで晴明の屋敷の隣ではないでしょうか。ヒントはこれも水です。同じお守り札が200年間も貼られているなんて、あり得ませんから…。

兼道邸が200年もの長きにわたり火災に遭わなかった。それは何を意味しているのでしょう?答えは簡単。彼の屋敷は、しっかりした水源がある場所に建てられていたと言うことです。それも川から汲んでいては火災に間に合いません。水が自噴しているほど恵まれた水源地でなければならないのです。

そんな場所などあるはずがないと思いながら探していると…、何とありました。

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井戸の写真です。

井戸の傍らには土管が埋め込まれていて、そこから清冽な水が湧き出しています。

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土管。

しかも、井戸の隣には稲荷神社が鎮座しています。安倍晴明の母は信田の森の狐とされています。信田の森は和泉にあり、和泉は秦氏の居住地です。この伝承は晴明の母が秦氏系の女子であったことを示しています。このためでしょうか、八雲神社の晴明石の隣にも稲荷社がありました。つまり、兼道の住居跡にあった井戸が晴明井戸と言うことになります。

「新編相模国風土記稿」によると、晴明石の傍らに井戸があり、安部晴明が祈祷の加持水として火災を防ぐに特に有効であったと伝えられているとのことです。十王橋近くに晴明石があり、その傍らに井戸があって火災を防ぐのに特に有効だったとすれば、この自噴的井戸は記述内容と寸分たがわず一致しているように思えます。

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井戸の場所を示すグーグル地図画像。(大きい丸が十王堂橋で小さい丸が井戸所在地。Z字部分もはっきり見えます)

頼朝は、豊かな水をたたえる水源地の兼道屋敷を自分の仮住居としたのです。水源は「みなもと」と読めますからその意味でも、彼にとって格好の屋敷だったのでしょう。

話は変わりますが、秦氏が信奉する神に摩多羅神があるのは既にご存知ですね。源頼朝は奥州平泉征伐の折、日光に立ち寄ります。彼は二荒(ふたら)の神に戦勝を祈願し、凱旋した後ここに一宇の堂を建て、摩多羅神を祀ったそうです。そして摩多羅神は北斗七星の輔星でもあるのです。

北斗七星の形を示す小袋谷川に位置する安倍晴明の屋敷。晴明屋敷の傍らにある水源地が兼道の屋敷。すなわち北斗七星の輔星(=摩多羅神)が兼道の屋敷だった。その屋敷を頼朝は移築して鎌倉における仮住居とした。

上記は頼朝が自邸に摩多羅神を勧請したことを意味すると思うのですが、いかがなものでしょう?

摩多羅神は日光東照宮において徳川家康の隣に祀られていますが、東照宮の摩多羅神は頼朝だとされています。これは、頼朝と摩多羅神の結びつきが影響したのでしょうか?あるいは武士にとっての八幡神の重要さ、八幡神は秦氏、秦氏は摩多羅神と連想が進み、そう言われるようになったのでしょうか?

いずれにしても、頼朝と摩多羅神の関係には相当根深いものがあったのです。

ちなみに鶴岡八幡宮にはかつて北条政子の建立による北斗堂がありました。鎌倉幕府の実権を握っていたのは北条得宗家。北鎌倉に位置する山ノ内は北条氏の最も重要な所領。そして、北条の名前にも[北]が入っています。ここにも、見えない糸で繋がるものがあるのかもしれません。

実は北鎌倉駅から県道を建長寺に向かって歩くと、JR横須賀線の踏切があるのですが、その踏切を渡った右手に安倍晴明の屋敷があったとの説もあります。しかし、ここまで検討してきた内容からすれば、この説は誤りと考えられます。

以上で、晴明屋敷と晴明井戸の所在地が確定しました。(あくまで酔石亭主の独断ですよ…)
残る謎は行方不明となったもう一個の晴明石です。

             ―呪術都市鎌倉探訪記 その11に続く―
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