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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その5


今回から久しぶりに歴史の謎解きに挑戦です。と言っても、ごく小さなローカル的謎解きとなります。なので、あまり面白くはないかも…。

謎解きは「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く」に関連するもので、最近気になる点が出てきたため追加の記事を書くことにしました。過去に書いた論考では、義貞が聖福寺に本陣を置いたという点に着目し、新たな視点での論理構築を行っています。

すなわち、陣鐘山に布陣する新田方の軍勢は、仏法寺山(酔石亭主の仮称です)に展開する幕府軍の注意をそらす陽動部隊でした。新田義貞が直接指揮する軍勢は化粧坂方面から稲村ケ崎に向けて進み、聖福寺に着陣。由井の民の先導で、幕府軍に悟られることなく白山神社から海岸線に抜け、鎌倉に乱入したのです。

ところが最近、聖福寺は藤沢市の大庭に存在していたとの説があることを知りびっくり仰天です。もし本当なら、苦労して組み上げた議論が根底から崩れてしまう。そんな危機感から聖福寺大庭説を詳しく調べて見ようと思い立ちました。

場所も近いので、行くのは簡単ですが、その前に鎌倉における聖福寺の位置関係などをおさらいしておきます。詳細は「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その8~10」2010年12月19日~を参照ください。

042_convert_20120113085139.jpg
電子国土画像。

「1」の位置が聖福寺跡地で、緑のラインが新田義貞率いる新田軍。「2」の青いラインが陣鐘山に布陣する新田軍。「3」の赤いラインが幕府軍防衛線で、仏法寺跡とあるのが仏法寺山です。

当初は仏法寺山の幕府軍と陣鐘山の新田軍が対峙し、そこへ新田義貞率いる新田軍が密かに到着し、聖福寺に着陣。稲村ケ崎の「崎」の字の下にある鳥居マーク(白山神社)経由海岸線に出て鎌倉に乱入したのです。白山神社の少し先は断崖ですが、当時の山はもっと海に突き出し、下ることができたと想定しています。

聖福寺はいつの頃か廃寺となり、現在は解説石板が跡地とされる場所に立っています。碑文の内容は以下の通り。

聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年)四月 関東ノ長久並ニ北條時頼ノ息時輔(幼名聖寿丸) 時宗(幼名福寿丸) ノ息災延命ノ爲建立セシモノニシテ 其ノ寺号ハ兩息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルルモ 廃寺ノ年代詳ナラズ 此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ  昭和九年三月 鎌倉町青年團建

紀元1914年は皇紀元年から数えての年代で、実際には西暦1254年となります。解説石板によると、この谷を聖福寺谷と呼ぶとあります。つまり聖福寺は音無川の谷戸のどん詰まりにあることになります。なぜ義貞はこんな谷戸の奥まったところに本陣を置いたのか?その疑問が上記の推論を導き出したのです。

碑文の子供の名前等にやや疑義があるものの、ここは北条時頼の子供の名を取って聖福寺と言う名前の寺が建立されたと言う点のみを銘記ください。

さてそこで、もし聖福寺が藤沢市大庭にあったとしたら、当初化粧坂攻略を進めていた新田義貞は、一旦大庭まで後退し、その後に稲村ケ崎方面に向かったことになります。これは時間的にも成り立たない話と思われます。この不可解な状況を整理するため、まず聖福寺が大庭にあったとされる根拠を探っていきましょう。

最初にチェックするのは「吾妻鏡」です。建長6年(1254年)4月18日 庚申の条には以下のように書かれていました。

聖福寺鎮守諸神の神殿上棟。所謂、神験・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏訪・伊豆・箱根・三嶋・富士・夷社等と云々。これ惣て関東長久、別して相州両賢息の息災延命 の為なり。仍って彼の兄弟両人の名字を以て、寺号に模せ被ると云々。去る十二日事始め 有りと云々。相模の国大庭の御厨の内に其の地を卜する所也。若宮別当僧正大勧進と云々。

相州が北条時頼のことで、両賢息が彼の息子でその両人の名字を以て寺号にしたとあります。この部分は解説石板と同じ内容になっています。問題はその後で、「相模の国大庭の御厨の内に其の地を卜する所也」とあります。聖福寺の建立場所は相模国大庭御厨内の適地を占って決めたと言う意味でしょうか?となれば、聖福寺はやはり大庭にあることになります…。

大庭御厨に関しては既に書いていますが、鎌倉権五郎景政が開拓した大庭の地を伊勢神宮に寄進したことから成立したものです。範囲はほぼ藤沢市の全域にわたり、中心は藤沢市北部の大庭です。

大庭御厨に関しては以下Wikipediaより引用します。

大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。
大庭御厨は1104年(長治元年)頃、鎌倉景政が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で1117年(永久5年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景政は1083年の後三年の役の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。田地の面積は、1145年(久安元年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。
大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。


大庭の地名が残る地が大庭御厨の中心になると思われますので、地図でチェックしてみましょう。


大きな地図で見る
大庭を示すグーグル地図画像。

地図の範囲内に大庭城もありここが大庭御厨の中心と考えられ、聖福寺の所在地はこの画像の範囲内と思われます。位置関係等を詳しく知るために、昭文社の藤沢市1/15,000地図を開きました。すると聖が谷と言う地名が出ています。

「聖」の字は聖福寺から取ったものかもしれません。場所は地図画像に表示されませんが、太字で書かれた藤沢市の下あたりです。つまり引地川親水公園の川をはさんで東側になります。早速行ってみましょう。

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