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北鎌倉の安倍晴明再考 その1

呪術都市鎌倉探訪記
02 /13 2012

北鎌倉の山ノ内には晴明石がありその傍らには晴明井戸があったとされます。大変面白い話と思ったので「呪術都市鎌倉探訪記 その10」(2012年1月9日)、「その11」(2011年3月5日)において、晴明石や晴明井戸の所在地を推理しました。(「その10」の作成日が離れているのは記事が一度消えたため)

しかし読み直すと、あまりに簡単に書いてしまった感があり、疑問な部分も出てきます。これはまずい、再度の検討が必要だと思えてきたのです。今回は地元の方からもお話を聞き、かつ史料等を参考にして、もっと詳しい記事に仕立て上げるよう努めました。

そこで、記事タイトルも新たに「北鎌倉の安倍晴明再考」とした次第。以前の記事と重複する部分もありますがご寛容ください。なお本記事を書くに当たっては、北鎌倉ベルタイム珈琲のご主人から長時間にわたり詳しいお話を伺うことができました。改めてお礼申し上げます。

前置きはこの程度にして早速検討を始めましょう。そもそも、北鎌倉に安倍晴明の痕跡があるとされるのは、「吾妻鏡」の以下の記述が元になっています。

治承4年(1180年)10月9日 戊子
大庭の平太景義の奉行として、御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、暫く知家事(兼道)が山内の宅を点じ、これを移し建立せらる。この屋は、正暦年中建立の後、未だ回禄(かいろく)の災いに遇わず。晴明朝臣鎮宅の符を押すが故なり。


正暦年中は(990年~995年)。意味は、(頼朝が)鎌倉に居館の建設を始めたが間に合わないので山ノ内にある知事家(兼道)の屋敷を移築した。この屋敷は正暦年に建てられて以降、いまだに火の神の災い(火災)に遭っていない。その理由は晴明が屋敷に鎮宅の符を押したからだ。

以上から、「吾妻鏡」の記述が正しいとすれば、安倍晴明は北鎌倉の山ノ内に来たことになります。であれば、晴明石と晴明井戸がここにあって不思議ではありません。次に「新編相模国風土記稿」を見ていきましょう。

晴明石
往還中二二所アリ。各大ニ三尺許。石ノ傍ラニ各井戸アリ、安倍晴明ガ加持水ニシテ火難ヲ防グ奇特アリ。ト云伝フ。大船村多聞院持。


晴明石の解説の中に必要な情報はほぼ出そろっているように思えます。往還とは現在の県道21号横浜鎌倉線です。その路上の二カ所にそれぞれ晴明石(三尺=約90cm)と晴明井戸があったと記載されているのです。では、グーグル地図画像で見ていきましょう。


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グーグル地図画像。この範囲内の往還中に晴明石が一個所在していた。

画像の中央を流れる川が小袋谷川で、(有)成蹊社とあるところで21号線に当たって消滅しているように見えるのですが、実際には道路を越えてすぐ直角に曲がり円覚寺の前へと続いていきます。川が21号線に当たったところにある橋は十王橋と呼ばれ、かつて付近に存在した十王堂にちなんでいます。後で書きますが、このお堂も安倍晴明との関連が推測されます。

安倍晴明は北鎌倉の山ノ内に来ただけでなく、屋敷も構えたそうです。一般的には、県道21号線とJR横須賀線が交差する踏切の建長寺寄りにあったとされ、晴明の石碑が置かれています。


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グーグル地図画像。

鎌倉五山と言うお蕎麦屋さん脇のパーキング手前に石碑があります。

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石碑です。

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石碑の背後。石碑の後ろに平石、その脇に丸石が見えます。

「呪術都市鎌倉探訪記 その11」では、この平石を行方不明になったもう一つの晴明石と特定しています。晴明の屋敷があったとされるこの場所は、若宮幕府の北境に当たると「呪術都市鎌倉探訪記 その13」(2011年3月10日)で記載しました。しかしJR踏切一帯には、石碑と稲荷神社を除くと安倍晴明の痕跡がないため、十王橋近くの小袋谷川が柄杓状となった場所を晴明屋敷と特定したのです。

小袋谷川の柄杓状地内を晴明屋敷に特定する理由は幾つかあります。小袋谷川の柄杓形状は自然にできたものとは考えられず、陰陽道が重視する北斗七星を象っていると推定されます。川の流れが人の手で柄杓状に曲げられたとすれば、詳細は後述しますが、安倍晴明との関連が疑われるのです。

晴明は稀代の陰陽師として有名で、泰山府君祭という陰陽道における最高の秘儀は彼が始めたものとされています。泰山府君は中国における道教の神ですが、日本において泰山府君は地獄の十王の一人である閻魔大王と同神になりました。そして十王を祀る十王堂が各地に建てられたのです。こうした経緯から、北鎌倉にあった十王堂は晴明に関係していると推測されます。

晴明石は戦前まで十王堂近くの往還中(現在の県道21号線)に置かれていました。ところが、戦後の道路拡張の際邪魔になるとして別の場所に移され、そこも具合が悪いと言うことでスサノオノミコトを祀る八雲神社境内に移されます。(時期は未確認ですが、昭和44年に移されたようです)

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八雲神社。以前は牛頭天王社と呼ばれていました。

神社の鳥居の先を左に上がると、稲荷神社の鳥居があり、その先に晴明石があります。

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稲荷神社と晴明石のある場所。

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晴明石。

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石を拡大します。

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さらに拡大。この石質に留意ください。

地元では晴明石を踏むと祟りがあるとされ、その結果足を悪くするのでびっこ石と呼ばれているとか。往還にあったときはさぞ足を悪くされた人が多かったのでしょうね。

写真でわかるように、晴明石の先に稲荷神社が鎮座しています。鎌倉においては晴明と稲荷社がペアになっているのです。(ここでは稲荷社が先行して鎮座していますが…)理由は晴明の出生譚にあります。

彼の父は保名で、母は信田の森の狐。この狐は保名に助けられたのを恩に感じ人間の姿となって保名の前に現れました。二人は結婚して晴明を産んだとされているのです。もちろん晴明は狐の子ではありません。信田の森は和泉にありました。そして和泉は秦氏の居住地です。晴明は秦氏系女子の子供として生まれたがゆえに、稀代の陰陽師となったのです。

八雲神社に関する神奈川県神社庁の由緒は以下の通り。

元仁元年(1224)12月鎌倉四境の北境に当たる「山ノ内」で疫病祓いの鬼気祭が斎行された。 この斎場跡に祇園八坂の神霊を勧請して村内の安穏を祈願したのが当社の創立。…以下略。

(注:鎌倉幕府3代執権の北条泰時は北条政子が嘉禄元年(1225年)に死去した後、幕府を大蔵から宇津宮辻子に移しています。元仁元年はこの場所が鎌倉の北境であった最後の年だったのです。なお宇津宮辻子幕府は嘉禎2年(1236年)に若宮大路へと移転されています)

鬼気祭を斎行したのは当然安倍一門の陰陽師と思われます。また八雲神社のほど近くには天王屋敷がありました。これは山崎天神社の相殿に祀られていた牛頭天王の御旅所つまり神輿をお迎えする仮宮があった場所を意味します。

そして、閻魔大王、スサノオ、牛頭天王は泰山府君と同神とされているのです。いかがでしょう?北鎌倉の狭いエリアに安倍晴明と関係の深い神々が勢揃いしていますね。だとすれば、この地に晴明の居館があったと推定して何らおかしくはないのです。

内容を纏めましょう。北鎌倉山ノ内には安倍晴明の存在を示す鎮宅の符の伝承、晴明石、晴明井戸があり、泰山府君と関係のある十王堂、スサノオ(=牛頭天王)を祀る八雲神社(創建は晴明没後200年以上後だが安倍氏系陰陽師が関係している場所)まで存在していることになる。

これだけの痕跡が集積している以上、あくまで晴明の居館が鎌倉にあるとの前提においての話だが、晴明の居館はこの場所にあったと考えざるを得ない、となるのですがいかがでしょうか?

では次に、京都一条戻橋の晴明神社まで飛びましょう。晴明神社境内には晴明の屋敷があったとされています。京都と北鎌倉。同じ人物の屋敷なら、何か対比できるものがありそうに思えます。と言うことで、神社の由緒を見ていきます。

晴明神社は晴明公の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所です。晴明公が亡くなられた後、一条天皇は晴明公の偉業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明神社を創建されたのです。…以下略。

由緒にも晴明と稲荷大神の関係が記されていますね。さらに神社境内には晴明井戸があり、井戸は北斗七星を象った柄杓の先端部に位置しています。つまり京都では、晴明井戸と北斗七星がペアになっているのです。本家本元でそうなっている以上、北鎌倉においても同様でなければならないのです。

だから北鎌倉における晴明屋敷は、北斗七星のある場所すなわち小袋谷川が北斗七星を象った場所に存在しなければならないことになります。と同時に晴明井戸も存在しなければなりません。

以上から、北鎌倉山ノ内の小袋谷川が柄杓状となった一帯に晴明屋敷、知事家兼道屋敷、晴明石、晴明井戸などが存在する(存在していた)必然性は十分にあると言えるでしょう。(知事家兼道屋敷に「鎮宅の符」を押したのは晴明で、この符は北極星や北斗七星を神格化した鎮宅霊符神の御札なので北斗七星と深い関係があります)

また京都は、琵琶湖の上に浮かんでいると形容できるほど地下水脈が豊富です。北鎌倉も同様に地下水が豊富で、至る所に自噴的井戸があります。この相似性も北鎌倉における安倍晴明の存在を示唆しているように思えます。

さて、ここまで書いた内容の多くは以前書いた分の復習と推理・分析作業なので、そろそろ具体的な検証に入らねばなりません。現在では21号線となっている往還のどこに晴明石はあったのでしょう?

             ―北鎌倉の安倍晴明再考 その2に続く―
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酔石亭主

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