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北鎌倉の安倍晴明再考 その5

呪術都市鎌倉探訪記
02 /17 2012

今回はもう一カ所の晴明石と晴明井戸を推理します。ほとんど想像だけで書くことになりそうですが…。

「呪術都市鎌倉探訪記 その10」で既に晴明井戸の所在地を推定しています。もう一つの晴明井戸と晴明石がここにあったと仮定して話を進めましょう。


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「呪術都市鎌倉探訪記 その10」に書いた晴明井戸の所在地。

場所はグーグル画像の鹿島産業裏の空き地(駐車場)です。

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所在地の写真。

稲荷社と自噴井戸があり、晴明屋敷から川を挟んでお隣となるので、ここが知事家兼道の屋敷と推定しました。「吾妻鏡」の記述によれば、兼道の屋敷には「鎮宅の符」が押されていました。押したのはもちろん晴明。これにより屋敷は200年間も火災に遭わなかったのです。

さらに北辰(北極星)と北斗(北斗七星)を神格化したのが鎮宅霊符神です。鎮宅の符と小袋谷川によって象られた北斗七星の形がペアになってこそ、その効力は存分に発揮されるのではないでしょうか?しかも、「吾妻鏡」の記述こそが北鎌倉における晴明伝説の元になっているのです。

だとすれば、晴明屋敷のお隣にあり、稲荷社があり、自噴井戸があり、北斗七星形の脇に位置するこの場所が知事家兼道の屋敷と推定して何らおかしくはなく、この場所にもう一つの晴明石と晴明井戸があったと推定する根拠になります。

ここで、「新編相模国風土記稿」の記述を再度参照しましょう。

晴明石
往還中二二所アリ。各大ニ三尺許。石ノ傍ラニ各井戸アリ、安倍晴明ガ加持水ニシテ火難ヲ防グ奇特アリ。ト云伝フ。大船村多聞院持。


上記の記述を読んで疑問を感じませんか?晴明石は「大船村多聞院持」と書かれています。すなわち大船にある多聞院の管理・所有下にあると記されているのです。多聞院は以前に訪問記事を書いています。「鎌倉の谷戸を巡る その7」(2010年5月6日)を参照ください。


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多聞院を示すグーグル地図画像。

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多聞院です。

なぜ遠く離れた(直線距離ではそれほど遠くでもありませんが)この寺が晴明石の管理者なのでしょう?実は多聞院の前身は瓜ヶ谷にあった観蓮寺とされています。ここで円覚寺古地図を見てください。

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円覚寺古地図。

下側で直角となった小袋谷川の下部に瓜谷と記載あります。晴明石が多聞院の管理下にあるなら、その傍らにある晴明井戸も当然多聞院の管理下となります。

多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった。晴明石は多聞院の管理下にある。その前提で考えると、晴明井戸と晴明石は多聞院の境内すなわち瓜ヶ谷側にあるべきです。よって、もう一つの晴明石と晴明井戸が鹿島産業の空き地にあったと考えて矛盾はありません。

一方、往還を隔てた向こう側は円覚寺の領域と思われます。ベルタイム珈琲のご主人のお話や、十王堂に安置されていた十王像が円覚寺の桂昌庵に移されていることからもそれは推測されます。また山ノ内は往還を挟んで上町、下町と分かれています。

つまり、ベルタイム珈琲脇の路地に晴明井戸があったら、それは円覚寺の管轄であり観蓮寺持ちと言えなくなるのです。往還中にあった晴明石はどうなのでしょう?絵図を見ると明らかに往還の中心線より瓜ヶ谷側にあります。何とかセーフと言うところでしょうか?往還中に置かれる前には、小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあったとすれば、多聞院持ちとの記述と完全に整合します。

以上から、ベルタイム珈琲脇の路地にあるとされる晴明井戸は後世のものであるとほぼ断定できそうな気配です。となると、晴明石の近くにある黒塀の家の井戸も後世のものの可能性が強くなります。

不可解なのは、天保12年(1841年)に完成した「新編相模国風土記稿」には晴明石が往還の二カ所にあると記述されているのに、それ以前の文化3年(1806年)に成立した「浦賀道見取絵図」には一カ所しかなく、また一個の石しか見えていない点です。この両者を矛盾なく整合させる視点はどこにあるのでしょう?

ではもう一つの晴明石の歴史を推測してみます。

円覚寺古地図が作られた1685年以前の段階で、一つの晴明石と晴明井戸は小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあった。もう一つの晴明石と晴明井戸は川を挟んで隣接する知事家兼道屋敷内にあった。場所は鹿島産業裏の空き地である。

円覚寺古地図の推定作成年である1685年から「浦賀道見取絵図」が製作された1806年の間に、晴明屋敷跡地にあった晴明石は往還中に移された。もう一つの晴明石はJRの踏切脇(お蕎麦屋さんの鎌倉五山の脇)に移された。(注:「新編相模国風土記」の晴明石が二カ所にあるとの記述は、1685年以前の話を書いたか、JR踏切脇に移されたものを書いたと推定される)

もう一つの晴明石はJRの踏切脇に移されたのは、ここが若宮幕府における北境であり、安倍晴明あるいは安倍一門の陰陽師が鬼気祭などの儀式を執行した場所だったから。だとすれば、その場所には北境を示す標石があったはず。

と言うことで、もう一度この場所を見てみましょう。

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安倍晴明の石碑を裏から撮影。

平石が晴明石で、脇にある丸石が若宮幕府の北境を示す標石と思われます。平石は八雲神社の境内にある晴明石と石質は同じに見えます。寸法はやや小さそうにも見えますが、大差はなさそうです。これこそが行方不明になっていたもう一つの晴明石だったのです。妙に思えるのは、丸石が脇に置かれていることです。

この丸石と写真上端の鳥居の基礎(凹形の二個の石)を比較してください。古さ、石質ともにほぼ同じように見えます。一方平石は新しく見えます。当初は鳥居の後ろに丸石が置かれ、そこに晴明石を持って来たため丸石の位置が横にずらされたように見えませんか?

ついでに別の「浦賀道見取絵図復刻版」も参照ください。

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復刻版絵図。JR踏切脇に相当する一帯です。

字法明石橋の横に立石があります。しかも、往還の中にあります。もしかしたら、これが晴明石なのかもしれません。「新編相模国風土記稿」の往還中との記述にも整合します。以上がもう一つの晴明石に関する推定来歴となります。

なお、ここにある安部清明大神の石碑は2009年末以降に晴明石の上からおろされ、石の手前に設置されたようです。多分セメントが劣化してぐらぐらしてきたため、晴明石からおろしたのでしょう。

石碑の裏には明治39年7月と彫られているので、その時点で石碑が平石(晴明石)の上に設置されたと推測されます。そして2009年末以降のある時点で平石の手前に移されたのです。従って、「呪術都市鎌倉探訪記 その11」(2011年3月5日)に書いた内容(明治時代になって現在の場所に石碑が建てられた)は間違いでした。

さて、様々な史料や推測を交え晴明石と井戸に関して書いてきましたが、どれも一長一短で終わらざるを得ません。

「浦賀道見取絵図」のみを基礎資料とすれば、八雲神社参道(古地図では今泉道)先の往還中(現在は21号線)に晴明石橋と晴明石があるのは、位置がやや異なっているものの基本的に正しいと思われます。またベルタイム珈琲のご主人が示された晴明石の位置は、実物を見ておられるのですから100%正しいと思われます。

但しその正しさは「浦賀道見取絵図」が完成した1806年以降のものと言えます。1806年以前に関しては、井戸と石がそれぞれ二カ所にあると言う「新編相模国風土記稿」の記述、多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった点、円覚寺古地図には晴明石橋と晴明石がない点などを考慮すると、俄然雲行きが怪しくなってくるのです。特に円覚寺古地図には、一軒一軒の詳細まで記されている以上、石橋があったら必ず記載するはずだからです。

また、晴明石が一個行方不明と言うのは、戦後の道路拡張の際行方がわからなくなったとは考えられません。「新編相模国風土記稿」にそれぞれ二カ所と記載されているのに、今泉道近くの往還中には一個しかなかったので、もう一個は行方不明にしたものと思います。(実際にはJR踏切脇に存在)

晴明井戸と晴明石が小袋側の柄杓状地内になかった場合(つまり晴明屋敷など存在しなかった場合)、円覚寺古地図に晴明石橋がない点から判断して晴明井戸と晴明石はともに後世(円覚寺古地図が完成したと思われる1685年以降)の捏造が考えられます。

鎌倉には満福寺の弁慶石や、御霊神社にある鎌倉権五郎景政の袂石・手玉石があります。これらは実際のものとは異なり、何らかの伝承に基づき後世になって設置されたものと考えられます。晴明井戸や晴明石、晴明石橋もそれらの同類と考えることは可能なのです。(もちろん弁慶や、景政の伝承がある地に、過去への思いを馳せるため設置されたとしたら、完全な捏造とも言い難い部分はあります)

ここでもう一度「浦賀道見取絵図」の復刻地図を参照ください。

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復刻地図。

どう考えても不自然なのは、晴明石が晴明石橋の上にあることです。石があれば溝の水流は石を避けて通るはずです。ところが絵図のような形だと、山からの水流が往還に溝を作った。往還に溝があっては不便なので石橋が造られた。次に石橋の上に石が置かれた、という順番になります。絵図は晴明石、晴明石橋のいずれもが後世になって設置されたものであることを物語っているとも考えられるのです。

晴明石や晴明石橋、晴明井戸に関してあれこれ考察を加えましたが、結論を出すには至らず、両論併記的に終わるしかありませんでした。ただ、北鎌倉の安倍晴明は単なる伝説であったとしても、三代将軍実朝から四代将軍九条頼経の時代に活躍した安倍泰貞など、安倍氏系陰陽師は鎌倉において間違いなく重要な地位を占めていました。晴明伝説が生まれる素地は十分にあったのです。

以上、結論はともかく北鎌倉の晴明井戸や晴明石を考える上で必要な要素は、本論考でほぼ全て網羅したと思います。(もちろん100%ではありませんが…)本記事を参考にして、さらに議論を深めて頂ければ幸いです。

本シリーズはカテゴリ「呪術都市鎌倉探訪記」に含めます。

最後に一言…。北鎌倉における安倍晴明のキーワードは北斗七星に代表される「北」と晴明井戸に代表される「水」でした。一方、鎌倉幕府の支配者は源頼朝以下3代の源氏と得宗家北条氏となります。源は(みなもと)で水源を意味し、北条の名前には「北」が含まれます。安倍晴明と鎌倉幕府のキーワードに見られる奇妙な一致。これは偶然の符合なのでしょうか?そんなはずはありません。武家の都鎌倉の実態は、陰陽師が裏で支配する呪術都市だったのです……。
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酔石亭主

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