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北鎌倉の安倍晴明再考 その9


藤沢の安倍晴明に関しては前回でほぼ終了したものの、補足的に書きたいことが出てきたので「その9」にて追加します。何が書きたいかと言うと、北鎌倉の十王堂に関連する事項です。現在十王堂は廃堂となっていますが、斎藤牛肉店あたりにかつて所在していました。


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斎藤牛肉店を示すグーグル地図画像。

「十王」とは、秦公王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王を意味しています。秦公王は秦氏の関係でしょうか?秦氏の氏寺である広隆寺はかつて秦公寺(はたのきみでら)とも呼ばれていました。ただ、秦公王は秦広王とも呼ぶようなので秦氏とは直接関係はないとも思えます。大山王は泰山王とも呼ばれ泰山府君のことです。

十王は地獄において亡者の審判を行う裁判官的な存在でした。言い換えればこの世とあの世の境界を取り仕切っている存在と考えられます。十王堂が北鎌倉山ノ内に建立されたのは、この場所が鎌倉の内と外を分ける境界だったからに他なりません。

十王堂の手前で小袋谷川が直角に曲げられ往還と交差しているのには、象徴的な意味もありそうに思えます。すなわち十王堂橋はあの世とこの世の境界に当たる三途の川を象徴していたとも考えられるのです。

しかも驚いたことに、この場所は稲村ケ崎近くの白山神社とかつて本郷台近くの鍛冶ヶ谷に鎮座していた白山神社を結ぶ鬼門ライン上にあるのです。鎌倉における鬼門ラインの詳細は鎌倉の地名由来を考えるを参照ください。

鬼門の考え方は陰陽道に由来します。だとすれば、二つの白山神社を繋ぐラインが鬼門ラインであると同様に、十王堂も二つあって繋がっているのかもしれません。そこで、十王堂に相当するものが他にないか考えてみました。すぐに思いつくのは十王岩です。

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十王岩からのライン。ライン上端部に十王岩があります。

十王岩からのラインは鶴岡八幡宮を経て若宮大路を真っ直ぐに下っています。東への傾きがありますが、一般的には鎌倉の南北軸と考えられています。また十王岩は鎌倉の境界とも思われます。しかし、十王岩と北鎌倉の十王堂とでは有意性のある連結ができません。

もう一つが閻魔大王などを祀る円応寺です。この寺は建長寺の近くにあってやはり北鎌倉の十王堂とは連結できません。困りましたねぇ。そこで円応寺に関してWikipediaで調べてみました。すると…。

『新編鎌倉志』等によれば円応寺は1250年(建長2年)の創建で、開山は建長寺開山蘭渓道隆の弟子にあたる桑田道海(智覚禅師)とされる。しかし、桑田道海は1309年の没で、年代が合わないこと、1250年といえば師の蘭渓道隆が開山した建長寺の落慶より以前であることなどから、当初から禅寺として建てられたことには疑問が持たれている。
円応寺は当初は由比郷見越嶽(鎌倉大仏の東側)に建てられたようだが、ほどなく滑川の川岸へと移転した。鎌倉市材木座5丁目11番地に新居閻魔堂跡を示す石碑が残る。現在の川岸から200-300メートルほど東側に離れているが、閻魔堂創建当時はこのあたりが川岸だったと想定される。なお滑川下流部は別名閻魔川とも呼ばれるが、これはこの閻魔堂に由来する。


とても有力なヒントが出てきました。「円応寺は当初は由比郷見越嶽(鎌倉大仏の東側)に建てられたようだ」とあります。由比郷の見越嶽は鎌倉大仏の東側すなわち甘縄神明神社の裏手に当たります。しかし、酔石亭主はこの説に反対です。根拠は以前に書いていますが、万葉集(巻14- 3365)の次の歌にあります。

可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自

鎌倉の見越の崎の岩崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ

鎌倉の見越の崎の岩崩のように、あなたが悔いるような心は、私は持ってはいません

「くえ」、とは大雨などで山や土手の斜面、あぜ道が崩れることです。では、鎌倉の見越の崎の崩れやすい岩とはどこを指しているのでしょう?この場所の候補地は、稲村ケ崎の他に腰越の小動崎、甘縄神社背後の御輿ヶ嶽などがあり、現在では特定できないとされています。しかし本当にそうでしょうか?

酔石亭主は見越しの崎という言葉に注目してみました。見越しとは、隔てている物の上を越して見ること、を意味します。稲村ケ崎の上を越して見ることができる場所。それは霊山ケ崎の山頂部以外にありません。小動崎の上を越して見る適当な場所はなく、御輿ヶ嶽は内陸部になりますのでこの歌に該当する場所ではありません。

詳細は、新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その11の記事を参照ください。崩れやすい岩とは海岸にあって台風や地震など被害を最も受ける場所。つまり、現在でも頻繁に崩れる稲村ケ崎に近い白山神社のある山なのです。


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稲村ケ崎近くの白山神社を示すグーグル画像。

これで北鎌倉の十王堂と円応寺の前身が鬼門ラインで結ばれました。

では、十王岩はどうでしょうか?試しに稲村ケ崎近くの白山神社と横浜市栄区東上郷町に鎮座する白山神社を結んでみます。


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東上郷町の白山神社周辺を示すグーグル地図画像。光明寺にも注目ください。

すると、驚いたことに十王岩の真上を通過していました。

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電子国土画像。それぞれ白山神社を繋いだものです。

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部分拡大したもの。

部分拡大したものでは、鬼門ラインが十王堂のほぼ真上を通過しています。もう一つのラインは見事に十王岩の上を通過しています。しかし…。実は十王岩のラインには問題があるのです。

本郷台近くに創建された白山神社は、正中元年(1324年)八軒八戸 に遷座し、昭和51年に東上郷町に移されました。もう一つのラインは、昭和51年に東上郷町へ移された後の白山神社と結ぶラインだったのです。詳細は鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠 その2を参照ください。

昭和に入って鬼門ラインを意識した移転が実施されたとは考えられず、このラインは誤りになりそうです。いや、誤りとは必ずしも断定できないようにも思えます。なぜなら、白山神社のすぐ近くには仙福寺(秦川勝の創建になる寺)が移転した光明寺があるからです。本郷台の鍛冶ヶ谷付近にあった仙福寺と白山神社がともに上郷町付近に移転したのは単なる偶然だったのでしょうか?

仮に必然だとしたら、秦氏や安倍晴明の呪縛・仕掛けにより、無意識裡に神社とお寺を移転していたとも考えられます。そうした可能性をゼロとすることはできないのです。仙福寺に関しては歴史の宝庫本郷台周辺を巡るを参照ください。

ちなみに、鎌倉市材木座5丁目11番地に新居閻魔堂跡があるのですが、これは滑川の川岸がこの近くにあったのではないと思います。鎌倉時代は一帯が湾の状態になっていたので、湾沿いに新居閻魔堂があったと理解すべきでしょう。

白山神社を結ぶ鬼門ラインには、特殊技能民である秦氏や由井の民だけでなく、陰陽道の安倍晴明あるいは安倍一門の関与があったとはっきりします。以上で「北鎌倉の安倍晴明再考」は終了です。
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