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藤沢歴史散歩 その3


今回は大庭御厨に関連する歴史を見ていきます。大庭御厨に関しては以下Wikipediaより引用します。

大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。…中略…大庭御厨は1104年(長治元年)頃、鎌倉景政が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で1117年(永久5年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景政は1083年の後三年の役の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。


うんと簡単に言えば、大庭御厨とは鎌倉権五郎景政が開発した藤沢市から茅ヶ崎市を含む広大な領地を伊勢神宮に寄進したもの、となります。その結果、本町周辺に大庭御厨と関連するものが幾つか見られるのです。では、どんなものが見られるのでしょう?

今からおよそ900年前、藤沢市のほぼ全域は伊勢神宮に寄進された土地になりました。だとすれば、伊勢神宮は荘園管理のため駐在員を藤沢に送り込んでくるはずです。彼らはどうやら本町近くに居住したらしい。よって、それに伴う神社や地名が本町周辺に集中したのです。と言うことで、具体的に見ていきましょう。


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グーグル地図画像。

画像の南側に皇大神宮があります。ここが最初の訪問地です。

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皇大神宮。

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解説板。

解説板には1104年に寄進とあり、Wikipediaは1117年寄進となっています。どちらが正しいのか困ってしまいますね。神社側は長治年中の藤沢一帯の開発をもって寄進としているようです。

そこで「吾妻鏡」を参照します。養和2年(1182年)2月8日条に、「義景が先祖権五郎景政、鄭重の信心を抽んで、去る永久五年十月二十三日、私領相模の国大庭の御厨を以て、永く神宮に奉寄する云々」とありました。開発行為が終わり正式に大庭御厨となったと考えれば、「吾妻鏡」の記事にある永久5年すなわち1117年を大庭御厨の成立と見て良さそうです。

また、皇大神宮の創建年代もやや疑問があります。解説板は832年としていますが、実際には大庭御厨の成立に伴って創建されたと考える方が合理的ではないでしょうか?

次に神社の写真を参照ください。拝殿の横に小さな社が見えますね。これは石楯尾神社です。

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石楯尾神社。

石楯尾神社の創建は大同3年(808年)で皇大神宮よりも古いのです。この神社は神奈川県内に7社ほどあり、式内社とされるのは相模原市緑区名倉(旧津久井郡藤野町)の石楯尾神社が有力です。石楯尾神社に関しては既に書いていますので、「相模国の秦氏 その10」を参照ください。

各神社の点在する地域を考えると、石楯尾を奉じる一族が秦氏や徐福子孫の移動に同行して相模国各地に分霊し、最後に藤沢市鵠沼に落ち着いたように推測されます。いずれにしても、皇大神宮は石楯尾神社の境内地を横取りして創建されたのでしょう。また大庭御厨以前の段階で、ここに天孫系神社が存在する理由が全く見当たらないことから、皇大神宮の創建が832年とするのは疑問に思えるのです。

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皇大神宮境内の石楯尾神社と他の摂社。

石楯尾神社だけが皇大神宮拝殿の脇にあり、他の摂社とは異なる扱いを受けているとわかりますね。これは、鶴岡八幡宮と丸山稲荷社の関係と同様です。

続いて、湘南高校と第一中学校の間の道に入ったところに白旗稲荷が鎮座しているので行ってみましょう。


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白旗稲荷を示すグーグル地図画像。

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白旗稲荷。

目的は神社そのものではありません。下の写真をご覧ください。

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石柱の写真。車田町氏子中とあります。

この「車田」と言う言葉に注目してください。伊勢神宮にお供えされるお米は、田に車輪状に植えられた稲を使います。つまり、皇大神宮にお供えする神饌米はこの場所で作られたと考えられるのです。

一方この神社が白旗稲荷と呼ばれるのは、車田が白旗神社の直轄田であったからとされます。白旗神社例祭における神輿渡御はこの車田から出発し、神輿には車田で収穫された稲穂が供えられていたようです。しかし本来は、皇大神宮にお供えするお米を作るための田であったと考えるべきでしょう。その根拠を考えてみます。

相模国一の宮の寒川神社からはやや距離がありますが、用田と言う地名の場所があります。そのすぐ北側は東海道新幹線となります。


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用田を示すグーグル地図画像。

用田の地名は寒川神社にお供えするお米を作っていたことに由来します。だとすれば、白旗神社の前身であった藤沢の寒川神社にお供えするお米も、当初はここで作られていた可能性があります。その後、藤沢市の鵠沼に皇大神宮が創建され、神社にお供えするお米は車田で作られるようになります。時代は下って鎌倉武士が覇権を握り、寒川神社は頼朝が義経を祀ることで白旗神社になりました。

その時点で、皇大神宮にお供えするお米を作っていた車田は、鎌倉幕府により白旗神社の直轄田とされてしまったと推定されます。実際、源義朝が天養元年(1144年)に大庭御厨に侵入、神官の荒木田氏に重傷を負わせる大庭御厨の濫妨事件が発生しました。頼朝の鎌倉幕府以前において既に、伊勢神宮の権威(神威)は武家により踏みにじられているのです。

このような経緯を経て、車田に鎮座する稲荷神社が白旗稲荷と呼ばれるようになったのでしょう。以上、車田の地名の成立経緯を推測してみました。正しいかどうかは神のみぞ知るですが…。

白旗稲荷の次は白旗交差点に向かいます。

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白旗交差点。

この一帯は「領家」と呼ばれていました。領家に関しては以下Wikipediaより引用します。

領家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。平安時代中葉の10世紀後期から11世紀の頃、地方の有力農民である田堵(たと)による田地開発とその私有地化が活発化した。このような開発田地の所有者を開発領主というが、その土地所有は法的根拠に欠け、国衙に収公される可能性も高く、非常に不安定なものであった。そのため、開発領主の多くは、中央の有力貴族や有力寺社へ荘園を寄進することで、荘園の支配権・管理権を確保するようになった。このとき、寄進を受けた者が領家である。


つまり白旗交差点一帯の「領家」とは、鎌倉権五郎景政から寄進を受けた伊勢神宮を意味するのです。伊勢神宮から大庭御厨に派遣された駐在員は荒木田氏です。彼の自宅もこのあたりにあったのではないでしょうか?車田や領家に関しては「鎌倉・藤沢の義経伝説 その21」に詳しく記載しましたので参照ください。

白旗交差点から西に歩くと伊勢山橋に至ります。

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橋から見た伊勢山。

伊勢山は伊勢神宮の遙拝所であったことから、その名前が付けられました。伊勢山橋のたもとには風早山真源寺があります。

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真源寺です。

では、伊勢山に登りましょう。結構急で息が切れそうになります。山頂には伊勢神宮の遙拝所であった痕跡をとどめるものは何もありません。小田急線と道路で削り取られた後の部分が壁土山と呼ばれ、ここが遙拝所であったようです。

山頂広場の北側には妙見碑があります。

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妙見碑です。

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拡大画像。泥で汚れていますが、北辰妙見大霊府神と彫られています。

妙見碑は伊勢山の南側斜面から掘り出されました、でも、なぜここに妙見碑があるのでしょう?妙見信仰は桓武平氏の平良文から綿々と続き、千葉氏に受け継がれます。千葉氏の流れに東氏がいて、そこから風早氏が出ています。

そしてこの地は以前風早と言う地名だったのです。上記の事実から、伊勢山の南にかつて風早氏が居住していたものと推測されます。地元の人たちは土地を去った風早氏を偲び、妙見碑を建てたのでしょう。それを証するかのように、碑は嘉永七年七月と記されています。嘉永七年は1854年でかなり新しいものなのです。また真源寺の山号が風早山であるのは、かつてこの場所にあった地名を反映しているのです。

以上、藤沢本町周辺には大庭御厨すなわち伊勢神宮に関連する旧跡や地名が数多く残されているとわかりますね。また、羽鳥近くにはお伊勢の宮(城神明神社)が鎮座しています。大庭に向かい国道一号線バイパスを潜った左手の丘の上です。(場所は羽鳥御霊神社の案内地図を参照ください)

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お伊勢の宮。

創建は1117年とされ、これも大庭御厨の関連とわかります。やや遠いので、これをコースに加えるのはちょっと無理かと思います。

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お伊勢の宮から大庭城址方面を眺望。

正面に大庭城址が見えます。昔は城が丸見え状態だったと推測されます。もしかしたら、監視所的な役割があったのかもしれません。

大庭御厨関連は以上です。

               ―藤沢歴史散歩 その4に続く―
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