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藤沢歴史散歩 その4


今回は義経に関連する歴史散歩となります。出発点は最初に戻って白旗神社。ここでもう一度神社の解説板を見ていきます。

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解説板。

内容のほとんどが義経に関連しています。彼は1189年に衣川で自害し、首は酒に浸されて腰越まで運ばれ、首実検がなされました。その後首は白旗に飛んでいった、あるいは境川を遡って当時の寒川神社の前まで流れてきたのです。もちろんいずれも事実ではなく、誰かが腰越から寒川神社まで運んだことになります。

一方、奥州から首を運べば暑いさなかのこと腐ってしまい、首実験どころではない、義経は自害せず北へとのがれ去ったと言うのが義経北行伝説です。しかし、奥州藤原氏はミイラの保存技術を持っていました。首を腐らせることなく運ぶのは可能であったと推測されます。

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境内に建立された義経の鎮霊碑。

寒川神社に運ばれた首はまず首洗い井戸にて洗い清められます。

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首洗い井戸を示す案内板。

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首洗い井戸に行くには小さな交番の脇道を入ります。

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首洗い井戸。

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井戸の内部。まだ水を湛えています。

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井戸の解説板。

洗い清められた首は当然ながら丁重に埋められることになります。それが首塚です。

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首塚の石碑。脇には綺麗な水晶が置かれていました。

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水晶。天罰が下りますから、絶対に取らないようにしてください。

実際の首塚は石碑のある位置ではありません。解説板には首塚が北方40mの場所にあると記されています。位置関係は「鎌倉・藤沢の義経伝説 その18」にて詳しく調べました。驚くべきことに、昔の地図には義経首塚道まで記載されています。現状はどうなっているのでしょう。首塚と義経首塚道は「首洗い井戸を示す案内板」に書き込みましたので参照ください。

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現在の義経首塚道です。大光舎の脇にあります。

小さな路地ですがまだ残っているとは奇跡的ですね。しかし首塚の位置には建物があります。従い、妙善寺へと続く道に入って位置を確かめましょう。

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妙善寺へと続く道。

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マンションがあります。奥の常緑樹の後ろ辺りが首塚になります。

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常緑樹の写真。この木の後ろにあるマンションのお部屋の下が首塚となります。

でも、なぜ義経の首はこの地に埋められたのでしょう?まず、白旗の地は既に書いたように秦氏や徐福子孫と関係がある場所です。一方源頼朝の背後には秦氏の存在があります。詳しくは「富士山麓の秦氏 その27」、「富士山麓の秦氏 その28」を参照ください。

また頼朝の家来に新開荒次郎忠氏がいるのですが、彼は秦川勝の裔とされています。そもそも頼朝が鎌倉に幕府を開くに当たっては、佐助ガ谷の老翁すなわち秦氏系の人物のアドバイスを受けています。

頼朝は佐助ガ谷の老翁すなわち秦氏の影響下にある人物だとすれば、彼の弟である義経も同様だった可能性はあります。 義経の母は常磐御前です。常磐御前は太秦の常磐の出身で、墓は京都市右京区常磐にあるのです。

さらに、義経が頼朝の勘気に触れ逃亡するに当たり、白山系修験者の助けを得ています。白山修験と秦氏は既に何度か書いたように密接な関係にありました。白山を開いた泰澄は秦氏の出ともされているのです。

以上の複雑な関係から義経の首が白旗の地に埋葬されたのは単なる偶然ではなく、十分な必然性があったと言えるでしょう。つまり、富士山麓の秦氏や徐福子孫の最終到達地点が藤沢の白旗で、頼朝と義経は共には彼らと関係があったから、首はここに埋葬されたと考えられるのです。

次が常光寺の境内にある弁慶塚です。義経の首塚は事実の可能性が高いのですが、弁慶の塚は後世になって建てられたものと推測されます。理由は「鎌倉・藤沢の義経伝説 その22」、「鎌倉・藤沢の義経伝説 その23」に詳しく書きましたので参照ください。

常光寺への行き方は案内板を参照ください。

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案内板。

ただし常光寺の山門から中に入ると場所がわかりにくいので、済美館と池田屋商店の間の道に入ります。(案内板には記載されていない道です)

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済美館と池田屋商店の間の道。

間の道を歩くと荘厳寺の裏手に出ます。すると、道の左側に山側へ入る狭い道があり、石段が見えます。

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山側へと入る道。

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石段を登ると平場がありさらに石段が…。

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この石段の先が弁慶塚のある平場です。

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弁慶塚です。

かなり文字は薄れています。「弁」の字は多分「辨」であろうと想像されます。

実は藤沢市における義経の痕跡は藤沢本町周辺だけではありません。寒川神社の御用田であったことが地名由来となった用田にも存在しています。場所は個人宅のお庭で、御曹司と彫られた石碑があるとのこと。(実物は見ていません)

義経は頼朝挙兵の報を聞き、頼朝に追いつくため平泉から馬を飛ばし、府中から平塚に抜けたそうです。その際、用田を通り寒川に向かう街道を通ったので、この石碑が建てられたとか。 義経は生きているときから寒川神社と縁があったのかもしれません。

秦氏や徐福子孫の痕跡、大庭御厨成立に伴う伊勢神宮関連の神社や地名、義経の旧跡など、この地には様々な歴史が重層していました。でも、なぜ藤沢本町周辺に興味深い歴史が集積したのでしょう?

理由を大庭御厨から考えてみます。本来なら大庭御厨の中心は大庭周辺にあるべきで、藤沢本町ではないはずです。なのに、伊勢神宮関連の神社や地名はここに集中しているのです。実は、伊勢神宮もその成立には秦氏が深く関与していました。何しろ元伊勢第一号は秦氏の秦楽寺境内にあるのですから…。

だとすれば、秦氏と徐福子孫がこの地に来たことが契機となり、伊勢神宮関連の諸施設が藤沢本町周辺に集まったとも考えられます。義経も同様の視点で見られそうです。

各時代は離れていますが、もしかしたら奥深いところで全ては繋がっているのかもしれません。歴史探索の醍醐味がここにあります。歴史に興味のある方は是非藤沢本町に足を伸ばしてください。ただし、観光地的な要素はほとんどない点、予めお含み置き頂く必要があります。遠い昔の人たちが何を想い、どんな行動をして、その結果どんな痕跡が残ったのかを想像し探索するのが歴史の楽しさです。

羽鳥はやや遠く、皇大神宮も藤沢本町からは若干距離があります。伊勢山は多少の山登りが必要となります。一日で全部歩きまわるには一定の脚力が必要かもしれませんが、ある程度足に自信がある方ならまず問題ないでしょう。現場を歩けば、酔石亭主とは全く違う切り口が出てくるかもしれませんよ。

また藤沢本町周辺には、ここには書いていない江戸時代の痕跡も残っています。それらは他の方がブログで書いていますので、ご興味あれば参照いただき訪ねてください。以上で藤沢本町を中心とした「藤沢歴史散歩」は終了です。

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