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秦さんはどこにいる? その24 (久我山の秦氏 補足の補足)

秦さんはどこにいる?
04 /20 2012

急ぎ足で記事を書くとやはり見落とす点が出てくるようです。前回で伏見区に久我の地名があると書きましたが、かつて山城国の北部に久我国があったとの記事を発見。それを証明するかのように、上賀茂神社の摂社として久我(くが)神社が鎮座していました。なので、補足の補足を書く破目に…。久我(くが)神社に関してはWikipediaより以下引用します。

久我神社(くがじんじゃ)は、京都市北区にある神社で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第八摂社)である。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀る。
『山城国風土記』逸文に、祭神が神武東征の際に、八咫烏(やたがらす)に化身し大和国まで神武天皇を先導、その功績により、一族を率いて山城国に入り、鴨川(賀茂川)の上流、久我国と呼ばれたこの地を賜って居を定めたとされる[1]。当地を開発し、後に賀茂県主(かものあがたぬし)の祖神になったと伝えられる。賀茂一族の氏神である当社は、近代まで氏神社(うじがみしゃ)とも呼ばれていた。


久我(くが)神社所在地は京都市北区紫竹下竹殿町47。何と鴨川上流が久我国だそうです。伏見区にある久我の地名、鴨川の久我国と上賀茂神社摂社である久我(くが)神社。この両者をどう考えればいいのでしょう。ホント困りますね。そこで、手許にある「風土記」の「山城国風土記逸文」賀茂の社を読んでみました。すると…、

賀茂建角身命は葛木山の峰から移動し、山代国の岡田の賀茂に至り、葛野河と賀茂河とが合流するところにおいでになり、久我の国の北の山の麓に住居をお定めになった、とあります。「風土記」という基本史料の記述を見落としていたのでは話になりません(~_~;)

賀茂氏の移動は雄略天皇期と思われ、秦氏も賀茂氏と共に同じルートで大和から山城国へと移動したと思われます。そう考えると久我国の存在の背景が見えてきそうです。実は伏見区にも久我神社(こがじんじゃ)が伏見区久我森の宮町8-1に鎮座しているので、由緒を調べてみました。内容は以下の通り。

当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦三年(七八三)頃、 都の艮角(北東)の守護神として御鎮座になったと伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社である。
往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ)を祀った本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないかとも、あるいは起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経てこの久我国 (葛野・乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ祖神を祀ったのが当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったのではないか、とも考えられている。これらの事から歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。
また久我の里では、当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、 やがて別雷神がお生まれになったとも伝えられている。


伏見区久我の久我(こが)神社由緒も明確には書かれていません。しかし、賀茂氏の移動ルートから考えると、彼らは「風土記」に記載されているように、葛野河と賀茂河とが合流するところで一旦留まっています。それが乙訓(現在の伏見区久我)と考えられます。

以上から、乙訓を根城にしていた久我氏を秦氏が倒し、一方賀茂氏は久我の地名を賀茂に持ち込んで久我国と称し、賀茂氏の手で上賀茂神社の摂社である久我(こが)神社が創建された可能性が見えてきます。
 
久我(こが)神社の由緒に、「久我国(葛野・乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方」とありますが、これはおかしいと思います。久我氏はかつて山城国の国造だったので、山城国全体を自分の姓に引き寄せて久我国としたので、後世になって混乱する元を作ってしまったとも思われます。(あくまで推測ですが…)

山城国乙訓郡(現在の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区および南区、伏見区の一部)の久我郷を本拠としていた久我氏は古代の実力豪族だったため、彼らの影響が秦氏と賀茂氏の両者に残り、久我郷(久我国)が乙訓と京都市北区に存在すると言い伝えられたのです。と言うことで、京都における久我は前回書いたとおり秦氏と関係する伏見区の久我であるとしておきます。
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酔石亭主

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