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大磯・高麗山の秦氏 その2


今回は高来神社(高麗寺)の御由緒から見ていきます。かなり長いのですが、以下のような内容となっていました。

当山の縁起は古く明らかではないが、神武天皇の御代の開闢と伝えられています。垂仁天皇の御代に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とし、安閑天皇の御代に応神天皇と神功皇后が合祀されたとあります。
神功皇后が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導きました。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉りました。これが高麗権現社の起源であります。

高来神社奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、この地を開発されました。(これは続日本紀の霊亀二年(716)に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます。)
又、大磯の浦(照ヶ崎)で漁をしていた蛸井之丞の小舟に小蛸が上って来たかとみると舳先に千手観音が御立ちになりました。舟の者共伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。夏の大祭には蛸井之丞の子孫が宮神輿の先供をして権現、明神丸の船屋台が前後に従い照ヶ先の祭場に渡御されます。(近年舟屋台は隔年の出御です)

養老元年に行基僧正が巡国の折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになりました。これより神仏習合の地として山頂の高麗権現と下宮の千手観音とを併せ祀り、高麗寺別当の司る所となりました。齋衡年間(855)に円仁により本社の左峰に毘沙門塔を右峰に白山社を建立されました。鎌倉時代には幕府の崇敬厚く後白河法皇の仏事に與り、政子の平産祈に神馬を奉りました。建長七年(1255)に定禅坊が牛王刻印を献上し、弘安十一年(1288)に鐘が鋳造されました。僧坊は二十四を数え高麗寺の最盛期で神像群もこの頃に造られました。室町時代には足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国には北条小田原城を上杉、武田勢が攻め果たさず、引き上げの途中に高麗寺も戦火に遭い白山社と毘沙門塔を焼失しています。

天正十九年(1591)に徳川の時代となり家康より寺領百石と山林を賜はり、後、東照権現が併せ祀られ地頭の治める所となりました。春の大祭は家康の命日、四月十七日に因み行われ山神輿の登御、町内の植木市で賑わいます。
明治になり神仏分離され寺物は地蔵堂に移され、高麗神社と改称され、明治三十年に高来(たかく)神社に改称されました。

この内容は平成18年のものです。解説板に掲載されてから現在までそれほど時間は経過していません。摩耗するはずがないので、神社側で内容が気に入らず取り下げたような雰囲気があります。現在の状況はともかく、御由緒には重要な内容が多く含まれているので是非全体をお読みください。しかし、どう考えても腑に落ちない部分があります。以下、内容を整理・仕分けしていきましょう。

創建が神武天皇で垂仁天皇の時代に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とし、安閑天皇2年(533年)に神功皇后・応神天皇が合祀されています。(なぜ安閑天皇2年なのかは後で出てきます)つまり創始時点の状況は不明ながら、高麗権現社の前身は6世紀頃に神功皇后・応神天皇を祀る八幡社であったと推測されるのです。ここに秦氏の影響が見て取れます。いずれにしても、関東における神社としては非常に歴史が古いことになります。

次に、「高来神社奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、この地を開発されました。(これは続日本紀の霊亀二年(716)に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます。)」と書かれた部分を検討します。

文法的におかしな点があるので、「高来神社奉納木遣に、…中略…この地を開発された、と歌われています」と読み替えてください。

応神天皇の時代に「邪悪な母国を逃れた権現様」に対応する人物は誰でしょう?思い浮かぶのは一人だけ。秦氏の祖である弓月君しかありません。弓月君と渡来の経緯は以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。


高来神社の由緒は天智5年(666年)に渡来した高句麗系の高麗若光と秦氏の祖である弓月君の渡来を混同させています。これらを整理し直すと次のようになるでしょう。

弓月君が応神天皇期の実年代である300年代後半以降に渡来した。秦氏はそれから数百年後に大磯上陸を果たした。具体的には安閑天皇2年(533年)に神功皇后・応神天皇が合祀された時点の少し前が秦氏の大磯上陸になると想定される。

その後、天智5年(666年)に高麗若光が高句麗より渡来した。若光は神社の由緒にあるように霊亀2年(716年)、武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かった。

これで混同されていた部分が整理できました。ただし、新羅の建国は356年で4世紀における新羅は弱小国家に過ぎず、弓月君の渡来を妨害する実力はないと思われます。まあこれは別問題なので、いずれ考えてみましょう。

次の問題ですが、6世紀頃、神功皇后・応神天皇を祀る八幡社を創建したのはどの系統の秦氏でしょう?徐福系秦氏は熊野から熱田、東三河と船で移動し、住留家の宇記島原(静岡県の浮島)に上陸して富士山麓に向かいました。既に書いたように、その一部はさらに船旅を続け、大磯に上陸した可能性がありそうです。なお、由緒には武内宿禰も登場していますし、弓月君を迎えに行った葛城襲津彦は武内宿禰の子になります。

由緒には彼らが唐船で大磯に渡来したと書かれています。花水川河口に唐ケ原の地名があるのは、秦氏がWikiにあるように「秦の帝室の後裔」との伝承を持っているからに他なりません。以上から、800年の富士山大噴火よりずっと以前に船で大磯に上陸した秦氏がいたと確認できます。

大磯に上陸した彼らは金目川を遡り秦野に入ったのです。だから秦野市には唐子さんが大磯に上陸して秦野に来たとの伝承が残ったのでしょう。富士山麓にいた徐福系秦氏は、秦野に既に秦氏がいることを知った上でこの地に向かったと思われます。

以上の検討結果から、高来神社(高麗寺)の由緒は秦氏の渡来と高麗若光および高句麗系渡来人の渡来を分別していないと判断されます。ここに大きな誤りがあるのです。

               ―大磯・高麗山の秦氏 その3に続く―

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