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大磯・高麗山の秦氏 その3

大磯・高麗山の秦氏
04 /23 2012

前回で、高来神社の由緒は秦氏の渡来と高麗若光の渡来を一緒にしてしまっている点に大きな誤りがあると書きました。この問題を慶覚院の千手観音像の伝承に関連して見ていきます。

寺の解説板には、本尊の千手観音像は大磯唐浜で漁民が引き上げた像で、高麗人の渡来に関する由来を持つ像として有名だとあります。一方、高来神社の御由緒は以下の通りです。

高来神社奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、この地を開発されました。(これは続日本紀の霊亀二年(716)に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます。)
又、大磯の浦(照ヶ崎)で漁をしていた蛸井之丞の小舟に小蛸が上って来たかとみると舳先に千手観音が御立ちになりました。舟の者共伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。夏の大祭には蛸井之丞の子孫が宮神輿の先供をして権現、明神丸の船屋台が前後に従い照ヶ先の祭場に渡御されます。(近年舟屋台は隔年の出御です)


上記内容はやや理解しにくいのですが、高来神社奉納の木遣には、前段の権現様が唐船で渡来したこと、後段の漁師の小舟の舳先に千手観音がお立ちになったことの2点が歌われていると言う主旨です。つまりこの二つの事柄は連続していることになります。木遣とはWikipediaによれば以下の通りです。

労働歌の一つ。1202年(建仁2年)に栄西上人が重いものを引き揚げる時に 掛けさせた掛け声が起こりだとされる事がある。


そこでこの木遣の内容を大磯町図書館でチェック結果、以下のようなものだと判明しました。(ちょっと調べればすぐにわかるので図書館は本当に便利です)まず前段部分です。

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高麗神社祭典木遣。何と手書きの資料でした。

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木遣 権現丸 その1 

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木遣 権現丸 その2 

内容を以下に記載しますが、達筆で読みにくく、書いたものが間違っている可能性もあります。その際はご寛容ください。

権現丸
そもそも高麗大神の由来を細しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者共怪しみて、遥乃沖を見てあれば、唐船一そう八ツの帆をあげ大磯の方へ梶を取る。走るよるよぞ見る内に、程無く水際に船は着き浦の漁船漕ぎよして、かの船乃中よりも翁一人立ち出て櫓に上りて声をあげ、「汝等其れにてよく聞けよ我な日本乃者にあらん。唐の高来国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に心掛、汝らきえする者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌守るべし」あら有難やと拝すれば、やがて漁師乃舟に乗りうつり上がらせ給ふを御代よりも、明神様を乗せ奉る舟なれば、明神丸とは是れを云ふなり。


木遣の出だしは、「高麗大神の由来を尋ねると」、とありますが、「第15代応神天皇の御時に、唐船一艘が云々」とありますので、この「木遣り歌」は、高麗若光の渡来ではなく、応神天皇期における秦氏の渡来が反映されベースになっていると理解されます。

仮に権現様が高麗若光あるいは高句麗系の人物の反映だとすると、「邪慳な国を逃れて」の文言と合致しなくなります。若光は高句麗の使者として天智5年(666年)に来日しているからです。

ただ木遣の中でも「唐(もろこし)の高来国の守護なるが」と中国と朝鮮がごっちゃになってはいますが…。

次に慶覚院の千手観音像の由来を検討します。高来神社の由緒では以下の通りです。

又、大磯の浦(照ヶ崎)で漁をしていた蛸井之丞の小舟に小蛸が上って来たかとみると舳先に千手観音が御立ちになりました。舟の者共伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。夏の大祭には蛸井之丞の子孫が宮神輿の先供をして権現、明神丸の船屋台が前後に従い照ヶ先の祭場に渡御されます。

これを木遣で見ていきます。先ほどの「木遣 権現丸 その2」の続きで「観音様」とあるのが慶覚院の千手観音像の由来です。應仁天皇(応神天皇のこと)十五代の御時より云々とありますので、木遣「観音様」は「権現丸」に続く話であると理解できますね。

「新編相模国風土記稿」には「本地堂 千手観音を置く、是高麗権現の本地仏と云、(応神帝の御宇、海中より出現せしと伝ふ、)七年に一度開扉せり」とあり、これも秦氏の渡来を反映していると理解できます。

また秦氏は応神天皇期に朝鮮半島経由日本に渡来しましたが、直接大磯に上陸した訳ではありません。「その2」で書いたように、安閑天皇2年(533年)に神功皇后・応神天皇が合祀された少し前の時点が秦氏の大磯上陸とほぼ等しいと推測されます。

安閑天皇2年に関しては、図書館で調べた以下の「船祭由来」を参照しています。

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船祭由来。

過去の歴史を読み解くのはなかなか骨が折れますね。まあ、そこが楽しい部分でもあります。上記の分析から大磯の地には秦氏の存在があるとほぼ確定できます。

しかし、7世紀以降の大磯は高麗(高句麗系)が中心になったのです。高麗(高句麗)の渡来人で最も有名なのが高麗若光です。高麗若光に関し以下Wikipediaより引用します。

666年(天智5年)高句麗の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(『日本書紀』)。
朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与されたともされるが(『続日本紀』)、ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である(新説『埼玉県史』)。
716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させている(『続日本紀』)が、若光もその一員として移住したものと推定されている(新編『埼玉県史』)。


717年の時点で高麗権現社は高麗寺が別当として管理し、霊亀2年(716年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させています。

以上から高麗若光あるいは高句麗系の王族が7世紀終わりから8世紀初めに大磯の地に上陸あるいは陸路で移住し、当地にしばし滞在した。その時点で秦氏系が祀る八幡社に高句麗系も祀られることになった。また彼らを供養する高麗寺も創建された。高句麗系はその後武蔵国の高麗郡に移住した、となります。

武蔵国の高麗郡は現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部に当たります。埼玉県日高市新堀には高麗神社が鎮座し、祭神は高麗若光となっています。かつては高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称され、明治以降は高麗神社と称されるようになりました。

高麗若光が移住する途中に、日向薬師近くに立ち寄りそれが契機になって白髭神社に祀られることになったものと推定されます。詳しくは「白髭神社探訪記」を参照ください。

             ―大磯・高麗山の秦氏 その4に続く―
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酔石亭主

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