FC2ブログ

信濃国の秦氏 その10


前回、あまりにも話がややこしくなったので途中で打ち切ってしまいました。改めて「波多腰は東と西がある」について考えていきます。まず、東の波多腰氏の支配地をより具体的に見ていきましょう。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。中山と埴原。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。片丘。

地名の中山と片丘に着目ください。松本平の東側にあり、中山が北で片丘が南に位置しています。(注:地名が入るようにするため画像を二枚に分けました)この地域内の埴原と内田は「諏訪御符礼之古書」に波多判官大夫跡と記されています。古書にある寛正・文明年間の頃、埴原の牧長を務めていた秦氏(波多氏)は西の波田町に移住し大野牧の牧長になったとの説も町誌には書かれています。

また、牛伏寺の釈迦如来の胎内銘には「中興修理 応永13年 波多腰大和守清勝」との銘があることから波多氏は埴原・内田から波田町に移住した後も旧地と繋がりを持っていたと理解されます。

以上の点を踏まえ、波多氏が引っ越したから波多越→波多腰になったと考えれば、筋道が通りそうに見えます。実際に波多腰姓は波田町に集中しており、埴原・内田ではほとんど見られない(推測ですが)ようですから…。

しかしWikiの記述では、秦氏が大野牧の牧長になったのは8世紀の初めと読めます。また今までの検討結果から和田堰は700年代の後半から800年初頭にかけて、秦氏の手により築造されたと理解されます。これらの視点から見ると、秦氏はもっと早い時点で波田町に入植していたと考えざるを得ないのです。では鎌倉時代以降とする町誌の視点をどう組み入れればいいのでしょう?

例えば、以下のような筋立てはいかがでしょうか?
秦川勝の子である秦広国が更級郡桑原に入植し、秦氏の一族はそこから筑摩郡に広がった。安曇野に入った秦氏は降旗あるいは降幡を名乗った。塩尻方面に入った秦氏は古畑を名乗った。波田町に入った秦氏は波多氏を名乗り、大井堰の築造、大野牧の運営に当たった。埴原・内田に入った秦氏も波多氏(波田氏)を名乗り、埴原牧の運営に当たった。埴原・内田の波多氏は1400年代に入って波田町に移住し、既に当地に根を張っていた波多氏と合流した。

以上で何とか筋道は立つのですが、引き続き問題となるのは、なぜ彼らが波多腰姓を名乗ることになったのか、です。「その5」においてある程度書いていますので参照ください。検討内容からして波多腰氏は秦巨勢氏の名前が変化したものとも考えられます。

しかし、どのような流れでそうなったのかを証明しない限り、単なる推測にすぎません。一定の根拠があれば、たとえ推測であっても信憑性が出てくるのです。波田町には秦氏の匂いがプンプンするのに、波多腰氏がどのような存在かわからないという大きな謎が残ってしまいました。

答えを得るには、秦氏が最初に移住したとされる信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)に行ってヒントを探るしかなさそうです。

             ―信濃国の秦氏 その11に続く―
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
04 | 2012/05 | 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる