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大磯・高麗山の秦氏 その7


高麗山をぐるりと回れば元の出発点に戻ることになります。出発点で慶覚院に設置された千手観音像の解説板を再び見た瞬間、突然脳裏に何かが浮かびました。あたかも天啓のようにある考えが閃いたのです。「千手観音像に関して重要な点が漏れている」、そんな声が聞こえたような気もした。これぞ秦の神のお導き。お導きに従って再度検討を進めるしかありません。まずは、「その3」で一部分しか書かなかった木遣「観音様」の全文から…。

応神天皇十五代の御時より、大磯浦のかつぎ舟、商の漁に出でかけるが、不思議や海中光有、渦巻く波の中よりも、小鮹一ツ泳ぎ来て、かつぎの舟に近付きて、乗るよと見えし不思議やな、鮹ではあらん舟のへに、千手千観の観世音、光妙輝き立給ふ、舟の者共伏せ拝み、そのまま水際に舟はよせ、盛奉る、拝みあげ、仮屋をしつらえ、経を読み、くせんくんじゅうなし給い、鮹の光りし浦なれば、かつぎおば、鮹井の上浦おば、照ケ崎とは此れを云ふなり

いつものように書き誤りがあるかもしれませんがご了承ください。内容自体は簡単で第15代応神天皇の御代に大磯浦の漁船が漁に出たところ、海中から光があり小蛸が泳いできた。蛸が舟に乗ると思ったら、それが千手観音だったので、舟の者は皆伏して拝み、仮屋をしつらえたと言うものです。

千手観音の出現と、「その3」で書いた木遣「権現丸」における権現様(秦氏)の出現はほとんど同じ形となっています。では、千手観音の由来が酔石亭主の中でどう閃いたのでしょう?

話は急に秦野まで飛びます。「相模国の秦氏 その6」においてヤビツ峠に行く途中にある蓑毛の大日堂を取り上げました。(読み返してみるとあまりにも内容が薄く冷や汗が出ます)大日堂には秦川勝に関連する石碑があり、以下のように彫られています。

応神天皇十五甲辰年自唐土秦苗裔 
守護来而安當山彼又住故名称里於
秦後孫秦川勝再加力云云


大体の意味は、応神天皇十五甲辰年に秦の遠い子孫が唐土から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んだのでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝、と言ったところです。

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秦川勝の石碑

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石碑の一部分。秦川勝の名前が判読できます。

「その1」にて書いたように、金目川の源流は秦野市蓑毛の大山南斜面となっています。すなわち、千手観音像が出現した大磯と秦川勝の石碑がある大日堂は金目川で直結しているのです。だとすれば、両者に何らかの関連・繋がりがあると見ていいでしょう。でも、どんな繋がりが…。それを見ていきます。


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大日堂の位置を示すグーグル地図画像。金目川の最上流部にあると確認できます。

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大日堂の仁王門。

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大日堂。

さて、この大日堂を管理していたのが大日堂の車道を挟んで反対側にある宝蓮寺です。そして宝蓮寺には「宝蓮寺縁起」と言う寺の縁起が伝わっていました。「秦野市史第一巻古代・中世寺社史料」にその内容が記されていますが、長文でしかも漢文で書かれているため、関連する部分のみを抜粋して書き下してみます。(前田豊著「徐福王国相模」彩流社にも出ているのでこちらも参照ください)

後秦の始皇帝の子孫が大日本国応神天皇十五年甲辰に仏の宝物・閻浮檀金の大悲像(=千手観音像、大悲観音は千手観音の異称)・五大尊を守護しながら、秦の苗裔(子孫)として日本に渡来した。彼らは山城国葛野郡に居住し天皇に奏聞した。応神天皇は尊像を霊山に安置し守護するよう命じたので、秦の苗裔は東国に下向し千手観音像を駿河の国・有度山の杉の上に置いた。

尊像はその後、久能の霊夢により世に顕れた。五大尊は相模の国・足柄上郡に安置され彼らは相州に居住した。よってその地を秦(秦野のこと)と言う。これは山城国に始めて居住し奏聞した場所が太秦だったからである。尊像は大変なご利益があり推古天皇の時代には貴賎が市をなした。これは聖徳太子のブレーンである秦川勝の力によるものである。秦川勝は大和の国の初瀬川より流れ来たと言う伝説を持っている。欽明天皇の時代に当たる。五大尊の由来はおおよそこうしたものである。


いかがでしょう?出だしの応神天皇は大磯の千手観音像の由来と同じです。大磯における千手観音の由来は、高麗人の渡来ではなく秦氏の渡来を反映していたと理解されます。さらに、始皇帝の子孫が応神天皇15年に渡来した云々は、秦氏の祖である弓月君の渡来が反映されています。

(注:「新撰姓氏録」の左京には、「秦造 始皇帝五世孫融通王(=弓月王)之後也」とあり、弓月君が始皇帝の子孫であると記載されています。「日本書記」によれば、弓月君は応神天皇14年に渡来し、弓月君の民は16年に渡来しています)

また大日堂境内にある秦川勝の石碑は、宝蓮寺の縁起がベースになっているとわかります。

そして、秦氏は東国に下向し千手観音像を駿河の国・有度山の杉の上に置き、尊像は久能の霊夢により世に顕れました。五大尊はその後相模国の足柄上郡(秦野市の蓑毛大日堂)に安置され、秦氏は相模国に居住したのです。

宝蓮寺の縁起では駿河国有度山から秦野に飛んでいますが、唐子さんが大磯に上陸し秦野に移住したとする伝承(岩田達治著「丹沢山麓 秦野の伝説」)から、大磯を経由したと考えるのが自然です。詳しくはWikipediaを参照ください。


すなわち弓月君が大悲像(=千手観音像)や五大尊を日本に持ち込み、子孫は山城国に居住した。山城国の秦氏は東国に移動した。彼らは駿河国有度山に千手観音像を安置し、続いて大磯に移住。その結果、大磯浦に千手観音像が出現したとなります。

以上の経緯から、この駿河国有度山と大磯の千手観音像は実は同じものであると推定されるのです。駿河国有度山の千手観音は現在静岡市清水区の鉄舟寺にあり、大磯の千手観音は慶覚院にあり二体の千手観音像は別のものと思われますが、これらはそれぞれの伝承に基づき後代になって造られたものです。よって現在は二体となっている千手観音像も、本来は同じものであったのです。

慶覚院にある千手観音像から酔石亭主の脳裏に閃いたのは、この像の動きから秦氏の移動経路が復元できるのではないか、と言うものでした。もちろん、秦野市蓑毛の大日堂、静岡市清水区の鉄舟寺や久能山を既に訪問していたから、別々のピースがパチンと一つに収まったのですが…。

実は、千手観音像の動きは上記だけにとどまりません。とても面白い話が秦氏の氏寺である秦楽寺(所在地:奈良県磯城郡田原本町秦庄)に伝わっています。秦楽寺は、聖徳太子が百済王から献上された西天竺の仏師毘首羯磨(びしゅかつま)作の千手観音像を秦川勝に下賜され、大化3年(647年)にそれを当地に安置したことに始まるとのこと。

そして宝蓮寺の縁起によれば、大日堂の五大尊は毘首羯磨によって刻まれたとされているのです。(注:毘首羯磨は実在の人物ではなく、帝釈天の侍臣で、細工物や建築をつかさどる神とされる。宝蓮寺縁起には毘首羯磨が大悲像(=千手観音像)を刻んだとは記載されていないが、話の流れから毘首羯磨作と考えられる)何と同じ千手観音像が奈良盆地における秦氏の支配地域にも出現していました。全く驚かされますね。

ところで、「久能の霊夢に…」とある久能とは誰のことでしょうか?そう、「東海の秦氏 その3」にて書いた秦川勝の二男或いは孫の秦久能忠仁です。霊夢が秦氏と関わるのは今までに何度か書いています。「駿国雑志」(阿部正信が天保14年(1843年)に著した駿河国の地誌)によれば千手観音立像の由来は以下の通りです。

昔、聖武天皇の御宇、秦川勝が二男、尊良の子、久能と言う者、山に入りて獣を狩けるに、海辺近き所に古き杉の樹より、光ありて朝日のごとし、久能あやしみ人をして射落させ見れば、長さ五寸ばかりの閻浮檀金の千手観音の像也。久能是を奇として、山中に寺を建、像を安置しけり。ある夜の夢に、老僧来て久能に告て曰く、我は補陀落山よりここに来れり。善かな汝、我を安置することよ、我能衆生を度せんのみと、夢覚て霊感をしるせり、因て補陀落山と云寺を建、久能寺と名づけり。其後行基ぼさつ此山に入て、古き楠を伐、千手の像七躰を刻み、かの五寸の像を新刻の像の胸に納けると也、七躰各七ヶ所に安置す。

ここまで書いた千手観音像の出現には、全て秦氏の関与があったと理解されます。なお「東海の秦氏 その2」において、「駿国雑志」に記載された内容と関連する鉄舟寺の由緒を掲載しています。是非ご参照ください。

これで観音様の出番もおしまいかと思ったら、まだありました。静岡に出現する以前に浜松にも姿を現していたようです。浜松市東区半田はかつての鹿玉(あらたま)郡に含まれ、覇多(はた)郷があり、長上郡の朝日波多加神社は秦氏に関係があるとされています。さらに半田の地名も秦氏地名です。


大きな地図で見る
東区半田を示すグーグル地図画像。

半田の一帯はかつて舟岡山とも呼ばれていましたが、これは秦氏と関係のある京都船岡山の地名を浜松に持ち込んだものと推定されます。京都船岡山に鎮座する義照稲荷社(よしてるいなりしゃ)と稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)はいずれも秦氏の神社で、稲荷命婦元宮は、伏見稲荷大社・命婦社の親神となる「船岡山の霊狐」を祀っています。稲荷信仰は伏見稲荷と船岡山の両者から広がったものと思われます。

また浜松には、同じく秦氏地名である羽鳥庄(浜松市東区豊町)があり、同地に服織神社が鎮座しています。以上から浜松にも秦氏の痕跡があると理解されます。

そこで、浜松駅の南に位置する龍禅寺(所在地:浜松市中区龍禅寺町357)を見ていきましょう。何とこの寺の創建は、推古天皇の御代に海中より出現した千手観音像を安置する堂が建てられたことに由来していました。全く神出鬼没の観音様ですね。でも、神出鬼没なのはその伝承を持ち運んだ秦氏と言うことになります。

また聖徳太子が馬込川河畔で千手観世音菩薩のお告げを受けたとも伝えられていて、そこは太子淵(馬込川と新川の合流部)と呼ばれているとか。或いは川から聖徳太子の像が出現したなど、話が変容して曖昧な部分もあります。(注:龍禅寺の伝承に関しては史料による確認ができておらず、裏付けがない点お含みください)

内容を整理します。応神天皇の御代に秦氏の祖である弓月君が閻浮檀金の大悲像や五大尊を守護して日本に渡来した。(注:閻浮檀金とは閻浮樹の森を流れる川の底から採れる砂金を意味しています。つまり大悲像とは、金の或いは金張りの千手観音像となります。五大尊とは不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王です)

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大日堂の解説板。

(注:解説板には金目川に沿った山合いと記述され、最初に指摘した様に大磯との関連も明確です。五大尊は解説板の不動堂を参照ください)

秦氏は応神天皇の命により千手観音像を駿河国の有度山(現在の日本平。東照宮が鎮座する久能山は秦久能に由来する)に安置した。それが秦川勝の子或いは孫である秦久能の時代に顕れた。秦久能の子孫である秦氏は五大尊と千手観音像と共に船に乗り、大磯に渡来した。(注:聖徳太子が毘首羯磨作の千手観音像を秦川勝に下賜して秦楽寺の創建となった伝承、浜松市龍禅寺の千手観音像に関連する創建伝承が全体の流れの間に挟まっていることになります)

千手観音像は大磯に留まり、五大尊は金目川を遡り源流である大山南面の蓑毛大日堂に安置された。五大尊は平将門が反乱を起こす際持ち去ったとされる。大日堂には五智如来像が安置されているが、平将門の乱以降のものとすれば五大尊の代替として安置されたと思われる。

なぜなら、全くの推測だが、宝蓮寺縁起には「駿河の有度山、相模の蓑毛山の両所には昔から古仏があり、新仏は白雉元年(651年)六月、法道仙人が丈六の五智仏像を縫い写したもので、相州秦の五智像は仙人の縫い写し仏を写したものだ」とあるから。

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五智如来像の解説板。

(注:平安後期の作とされています。五大尊を持ち去ったとされる平将門は平安中期の人物。五智如来像等の写真は「秦野市役所ホームページ」を参照ください。一番上の写真の形で大日堂に安置されています)

一方、千手観音像に相当する像は大日堂に存在せず、大磯に留まったことが確認される。「宝蓮寺縁起」の記述に基づいて大日堂境内には秦川勝の石碑が建てられた。

なお宝蓮寺の縁起によれば、五大尊は沙門たちが始皇帝の29年に秦に持ち込んだが始皇帝は彼らを殺そうとした。しかし徐福が彼らを救い宝物は徐福に遣わされたとあり、徐福子孫が秦氏であるとの別の伝承にもうまく接続させています。

問題は秦川勝が欽明・敏達・用明・推古・上宮太子(聖徳太子)に仕え、生没年は不明で六世紀後半から七世紀前半の人とされていることです。この場合、高来神社の由緒のように秦川勝自身或いはその子孫が安閑天皇2年(533年)、神功皇后と応神天皇を合祀することはできません。まあ、この辺を厳密に考えると辻褄が合わなくなるのですが、縁起自体が伝説的なものですから、目をつぶることにしましょう。

「秦野市史 通史1」には相模国の官僚となった秦氏の名前が出ています。但し8世紀以降の話となります。具体的には以下の通り。
天平7年(735年)秦三田次 少目(しょうさかん)に任命。
天平15年(743年)秦井出乙麻呂 相模守に任命。
永観元年(983年)秦為彦 権少目に任命。
承暦3年(1079年)秦連正 権堟に任命。
相模国には相当数の秦氏がいたと理解されます。大磯の国府本郷はかつて国府のあったことに由来する地名とされるので、大磯在の秦氏がこちらにお勤めしていた可能性もありますね。(注:相模国の国府は数カ所候補地があるものの、まだ確定していません)

いずれにしても、「宝蓮寺縁起」、「駿国雑志」、木遣「観音」や「権現丸」にある千手観音像を追うことで、始皇帝の秦→奈良盆地秦庄の秦楽寺(弓月君の居住地は葛城朝妻、掖上で現在の御所市)→山城国葛野郡→遠江国の浜松→駿河国の静岡→相模国の大磯→相模国の秦野と秦氏の移動経路(居住エリア)が一定程度復元できるのですから実に面白いと思います。

上記の秦氏の移動は徐福系秦氏とは別の動きであると思われます。また秦氏が地名や徐福伝承だけでなく、千手観音伝承までも持ち運んでいたとは驚きです。

なお秦野の蓑毛大日堂における秦川勝伝承については、江戸時代の寛文9年(1669年)4月27日に蓑毛村の地頭揖斐氏が薬音寺を宝蓮寺に改め大日堂を管理下に置き、「宝蓮寺縁起」が成立した時点で形成されたものと思われます。(この部分は「秦野市史研究 第25号 秦氏と波多野氏」を参照しました)

ちなみに、揖斐氏が薬音寺を宝蓮寺に改称したのは、揖斐与右衛門の令室の法名(迎接院宝蓮信女)に由来しているとのことです。

以上から、川勝の石碑も江戸時代の寛文年間以降に建てられたものと推測されます。言い換えれば、秦野における秦川勝伝承は江戸時代までしか遡れないことになってしまうのです。

もちろん他の史料である「駿国雑志」や木遣「観音」、「権現丸」も江戸時代のものに過ぎません。しかしながら、遠い過去の記憶が江戸時代に反映され上記のような伝説を生んだのは間違いないはずで、秦氏の手で各地を流転した千手観音像の伝承からしても、大磯における秦氏の存在を否定することはできないと思われます。

従って、慶覚院の千手観音立像に関する解説板の記載内容、「慶覚院の秘仏本尊で、伝えでは大磯唐浜の沖より漁民が網で引き上げた像といわれ、高麗人の渡来に関する由緒を持つ像として著名です。…以下略」(大磯町教育委員会)は、「高麗人の渡来」の部分が誤りで、「秦氏の渡来」と書き直すべきです。

同様に、高来神社解説板(現在は掲示されていない)の記述、木遣「権現丸」の解釈も高麗若光など高句麗系渡来人の渡来を反映したものではないので、訂正する必要があるでしょう。

一体の千手観音像の背後にかくも奥深い世界が広がっていたとは驚きですね。この一点だけを取っても、「大磯・高麗山の秦氏」シリーズを書く意味があったと思っています。

               ―大磯・高麗山の秦氏 その8に続く―
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