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大磯・高麗山の秦氏 その8

大磯・高麗山の秦氏
05 /03 2012

前回は慶覚院の千手観音像に関する考察で終わってしまいました。実は、秦氏と直接関係がなかったので、「その7」にてあまり検討しなかった内容があります。大悲像や五大尊が秦の始皇帝の元に伝来した際の状況についてです。「宝蓮寺縁起」にはおおよそ以下のように書かれています。

始皇帝29年、沙門室利(梵語で吉祥)ら十八人がインドから震旦(中国を意味する)に来た。舎利梵夾等の仏、宝物、閻浮檀金の大悲像、五大尊、金剛力神等の秘仏を持ち来たった。

この話どこかで読んだような気がしてならず、手許にある「今昔物語集 天竺・震旦部」(岩波文庫、物語は平安時代末期の1120年代以降成立)を開いてみました。すると、「震旦の秦の始皇の時に、天竺の僧渡れる語 第一」と言うタイトルで以下の記述を発見。

今昔、震旦の秦の始皇の時に、天竺より僧渡れり。名を釈の利房と云ふ。十八人の賢者を具せり。亦、法文・聖教を持て来たり。

利房は「仏祖統紀」によると室利となっていますので、人物・人数ともに同じです。なるほど、「宝蓮寺縁起」の元ネタは比較的ポピュラーな「今昔物語集」だったのです。これに秦氏を関連付け、脚色して縁起が創作されたと理解されます。もっと古い元ネタがどこかにあるのでしょうが、どなたか知っておられたら教えて頂きたいと思います。

「今昔物語集」によると、彼らは法文・聖教を持って来ただけで、大悲像も五大尊も出てきません。それもそのはず、始皇帝は紀元前259年 ~ 紀元前210年の人物であり、一方ヘレニズムの影響で仏像が製作されるようになったのはクシャーナ朝からで、どんなに早くても紀元1世紀前半となってしまいます。

利房がありもしない大悲像や五大尊を秦に持ち込むなんて不可能で、この部分に関する「宝蓮寺縁起」の記述は全くの作り話と断言できるでしょう。まあ、伝説はとかくそんなものですが…。

結局、弓月君の渡来は事実に近いとしても、大悲像と五大尊が日本に渡来するまでのストーリーは創作で、百済王から献上された千手観音像を聖徳太子が秦川勝に下賜して秦楽寺に安置したあたりから事実を反映しているように思えます。この部分は弥勒菩薩像が聖徳太子から秦川勝に下賜され、蜂岡寺(現在の広隆寺)に安置された話とほとんど同じなので、信憑性が高いと考えられるからです。(注:「日本書記」には尊い仏像とあるのみで、弥勒菩薩像とは記載されていません)

なお「宝蓮寺縁起」によれば、室利たちは始皇帝に殺されそうになり、徐福によって助けられたとされます。一方「今昔物語」では、始皇帝が風体の怪しい室利たちを尋問し投獄してしまいます。しかし利房が祈るとあら不思議、丈六(4.8m)のお釈迦さまが紫磨黄金の光を放って虚空に出現し、獄門を打ち破って彼らを救出するのです。

お釈迦様が「宝蓮寺縁起」になると徐福に変えられているのは、多分徐福系秦氏の影響でしょう。あれこれ比較検討してみると実に面白いですね。

それはさて置き、慶覚院のあたりはかつて前田と言う地名だったそうです。そして前田には古い製鉄場の跡らしき場所があったとされています。湘南海岸あるいは金目川の砂鉄を採集して製鉄していたのでしょうか?

高麗山には鍛冶に関係する白山権現もありますので、海岸或いは川で砂鉄を採集(産鉄)し、前田で製鉄して、それを付近の鍛冶場で鉄製品にしたと言うイメージが湧いてきました。(あくまで想像ですが…)

上記から、金目川の名前は鉄絡みだった可能性も出てきますね。酔石亭主としては川の河口が唐ヶ原で海岸が唐ヶ浜だった関係から、金目川の元の名前が唐川で、鉄との絡みで金目川に変わったのではと勝手に想像しています。

であれば、唐川→神奈川が神奈川県の地名由来になるのかもしれません。神奈川の神奈は神奈備(神のいるところ)の神奈です。神である秦氏(神も秦も字音は同じシン)の重要な移動経路が金目川だったので、そう考えるとふさわしそうな気もします。高麗若光は鍛冶の技術を持ち込んだとされるので、若光の渡来以降唐川が金目川に変わったとも考えられます。

与太話はほどほどにして、JR大磯駅の西側に向かいます。ちょっと気になる神社が2社鎮座しているからです。社名は宇賀神社と白岩神社。


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両神社の位置を示すグーグル地図画像。

車を止めるのは難しそうな場所なので今回は電車を利用しました。

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大磯駅からの光景。

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もう1枚。

大磯は戦前・戦後に活躍した政財界の著名人の別荘地として有名ですが、悲しい恋の物語が語り継がれる地でもあります。内容は次のようなものです。

大磯駅の裏山で昭和7年(1932年)5月9日若い男女の心中遺体が発見されました。男は調所男爵家の一族で慶大生の調所五郎、女は静岡県の素封家の三女・湯山八重子でした。彼らは写五郎が写真の現像液に使っていた塩化第二水銀で自殺したのです。大磯駅から撮影した写真の山が事件のあった場所のようです。

二人の心中事件はセンセーショナルに取り上げられ「坂田山心中」と呼ばれました。(実際の山の名は八郎山だそうです)一ヶ月後には松竹がこの事件を題材として「天国に結ぶ恋」を製作し封切ります。映画は大ヒットだったとか。

ここで気になるのが、二人が服毒自殺した水銀です。もうご存知のように水銀は死と再生の象徴とされます。永遠の命を願う始皇帝の墓には100本もの水銀の川があるのが発見されたそうです。もちろん秦氏にとっても水銀は死と再生の象徴として重要なものでした。二人は再生し次の世で結ばれることを願い、水銀を飲んだのかもしれません。

もし彼らが天国ではなくこの世で結ばれて、妊娠し子供ができたら、当時のマスコミに取り上げられることもなかったでしょう。そう思って妊娠と言う文字を見ると秦氏に関係がありそうに思えてきました。妊娠の娠の旁(つくり)は辰で音のシンは秦に繋がります。また辰は水銀の原料である辰砂の辰であり、妊の旁である壬は壬生(=丹生)の壬であり、丹生はこれまた水銀の原料を意味しています。

そう、妊娠は死と再生の再生部分を担っているため、水銀と関係のある文字が選ばれたのです。普段目にする文字にも、背後に深い意味が隠されているとは本当に不思議ですね。

また与太話的になってしまいました…。駅から国道一号線方面に坂を下ります。

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大磯らしい洋館です。ずっと以前にここで食事をしたことがあります。

国道1号線に入り少し歩くと延台寺があります。このお寺には曽我兄弟に関係する虎御前の供養塔などがあります。寺の始まりは曾我十郎の彼女だった虎御前が曽我兄弟の菩提を弔って建てた庵だとか。


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延台寺を示すグーグル地図画像。

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供養塔。

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大磯宿遊女の墓。藤沢にも同じような墓があります。

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出桁造りのお店。

さらに歩くと茅葺の屋根が見えてきます。鴨立庵です。近くには一般的に秦氏との関連が想定される白山神社もあります。


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鴨立庵の位置を示すグーグル地図画像。

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鴨立庵です。

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解説板。やや読みにくいので以下記載します。

鴫立庵(しぎたつあん)
寛文4年(1664年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に”著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮  (西行法師)
 

ここにも五智如来像が出てきます。蓑毛大日堂の五智如来像と何か見えない繋がりでもあるのでしょうか?ちょっと不思議ですね。

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出桁造りのお店。カレーダイニングカフェらしいのですが。

もう少しこの手の建物が多いと東海道の雰囲気も増すのですが仕方ないですね。お店の確か向かい側だったと思いますが、趣のある門が…。

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門。

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翠渓荘と言うお店らしいのですが、元は企業の施設だったようです。

などと思いながら歩いていると、ようやく有名な大磯の松並木が現れました。

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松並木。

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松の巨木。

松並木を抜けると宇賀神社が今は閉鎖された滄浪閣(そうろうかく)の向かいに見えてきます。なお滄浪閣は、1890年に建てられた伊藤博文の別邸です。

秦氏とはほとんど関係のない大磯散歩記事で終わってしまいました。

                 ―大磯・高麗山の秦氏 その9に続く―
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酔石亭主

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