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信濃国の秦氏 その4

信濃国の秦氏
05 /24 2012

沙田神社と御乳神社は「その3」の検討結果からして、諏訪大社(御柱や例祭の類似)、海人系安曇族(祭神が豊玉姫、玉依毘売姫で海人系)、秦氏(波田町鷺沢嶽に奥社が鎮座)の影響を受けていたためややこしくなっているような気がします。しかし波田町に秦姓はいないのです。困りましたね。ともかく鷺沢なる場所を見に行きましょう。現地に足を踏み入れる時間がなかったので、対岸から観察しました。

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川のすぐ上は鷺沢浄水場で、左上の建物は小石興業の砕石プラントです。

これではわかりにくいのでグーグル画像で参照します。


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グーグル画像です。拡大してご覧ください。

保健センターの梓川を挟んだ対岸が浄水場で、その背後が鷺沢であると確認できます。現場の様子や画像を見ても、遠い昔この地に神社が2社も鎮座していたなど信じられません。しかし、民宿のご主人の話ではかつて集落もあったようです。あくまで想像ですが、こんなことをするのは秦氏以外に考えにくいと思われます。

実はWikipediaの波田町の項を見ると以下のように書かれています。

8世紀初めに、波田・安曇・山形・和田にかけての地域に、大野牧という養馬を目的とした牧場(御牧=みまき=勅旨牧)が造られた(延喜式)。これは、663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、応援していた高句麗が668年に滅ぼされた背景に、自国の騎馬の貧弱さがあると考えた朝廷が勅旨をもって、全国に33の御牧を造ったが、その1つであり、中信地方には、大野牧以外にも、埴原牧(松本市中山・内田・塩尻市片丘広丘)と猪鹿牧(穂高)が造られた。
その後、大野御牧の牧長であった秦氏は、牧内の水利のよい場所を私墾田として開発し、ここを不輸・不入の特権を持つ荘園として実権を握る。872年に編纂された『貞観寺領目録』には、「信濃国 大野庄 百二町二段五十歩 在筑摩郡」と記録されている。…中略…
秦氏はまた、灌漑工事が得意であった。波田赤松の地に堰堤を造り大井口水門とし、大井堰(和田堰)を開削して、この用水をもって筑摩野の原野に水田を開いた。『和名抄』(937年)には、筑摩郡の6郷として、良田・崇賀・辛犬・錦服・山家・大井が載っている。大井郷はこの大井堰が郷名になったものと考えられ、『和名抄』編纂以前に大井堰はできていた。


要約すれば、波田町を中心としたエリアに秦氏が造った大野牧があった。大井堰(和田堰)は秦氏が築造したというものです。この記述をもって波田町には秦氏がいたとするのは簡単です。しかし、大野牧と大井堰(和田堰)に関して、本当に秦氏の手によるものかもう少し詳しく検討する必要がありそうです。

まず大井堰から考えてみます。考えるまでもなく、かつて京都の葛野川に堰(葛野大堰)を築造したのは秦氏で、その結果葛野川の名前が部分的に変わり、大堰川(=大井川)と呼ばれるようになりました。波田町の大井堰も全く同様なネーミングに考えられます。

この種の土木工事は秦氏の得意技であり、名前の付け方まで秦氏的で、和田堰(一般的には和田堰の名称なので、以降和田堰に統一表記します)の和田も秦氏に連結する地名と来ればWikiの記述通りと考えてほぼ良さそうです。


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和田を示すグーグル地図画像。

では堰はどこに開削されたのでしょう?Wikiには「波田赤松の地」とあります。実は松本電鉄新島々駅前から鷺沢へと向かう途中に大井口水門跡地がありました。新島々から鷺沢方面に走っていると右手に巨大な石碑が現れますのですぐにわかると思います。

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和田堰旧取入口跡の石碑。

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取入口付近の川の様子。

痕跡はありませんが川筋が別れていますので、ここで分流させたのかも…。


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和田堰の位置を示すグーグル画像。

場所の全体を示す写真を撮り忘れ自信はないのですが、野麦街道が梓川の堤防に突き当たったような場所が和田堰跡であったと思います(^_^;)

秦氏が築造した堰に思いを馳せていると、改めてその位置関係に驚かされました。秦氏が施工したと推定される堰は鷺沢のすぐ近くにあったからです。秦氏と関係の深い白山の麓に鷺沢があり、その少し下流に秦氏が開削したと思われる和田堰がありました。この両者の存在は無関係ではなさそうです。

だとすれば、鷺沢にかつて集落があった理由もはっきりします。この集落は和田堰における取水口の管理をしていたのです。多分開削当時においては秦氏の技術者が駐在していたのでしょう。なぜなら、島立条里一帯250ヘクタールに灌水するには毎秒5トンもの水量が必要とされ、その管理は専門の技術者でなければ不可能と想定されるからです。

そして水の供給と安全を祈願して沙田神社・御乳神社がこの地に建立されたと推定されます。となると、神社を建立したのは秦氏以外にありません。後年になって諏訪大社系、安曇族系に取って代わられ、神社の祭神や祭祀が別のものとなったのでしょう。しかし過去のありようが反映され、御柱は波田町の鷺沢山から切り出されることになったのです。

京都の葛野川に堰を造ったのは葛野秦氏です。「その1」で書いたように、秦川勝が聖徳太子より恩賞として信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)を賜り、長男秦広国が信濃国に移り住んで統治したのが長野県における秦氏の始まりと考えられます。

上記から、秦広国が朝廷の命を受け、傘下の秦氏が和田堰の工事を実施した可能性も見えてきます。沙田神社の創建が由緒通り649年とすれば年代的にも整合します。また神社の由緒に「信濃国司が勅命を奉じ」とあるのも朝廷の命を受けたものと理解されます。

波田町の秦氏は葛野系秦氏が最初の入植地である桑原郷から移住した、あるいは葛野の技術者が直接派遣されたものと考えて間違いなさそうです。でも、波田町に秦姓の方は居られない…??まだまだ信濃国には奥深い謎が隠されているようです。

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参考までに新島々駅近くの堰。

現地に行くまではこれが和田堰跡だと思っていました。沙田神社を訪問しなければ、鷺沢まで足を伸ばすことはなく、和田堰跡を見逃していた可能性が大きかったと思われます。多分、新島々駅近くの堰を「これが和田堰跡でしょうか」などと間違った内容を書いていたはずです。

沙田神社に立ち寄り由緒を読んでいたおかげで鷺沢に向かい、途中で和田堰跡を発見することができたのは本当に幸運でした。「その3」にて「沙田神社が導いてくれたような気がする」と書いたのはそうした意味からです。(それにしても、和田堰に関して書かれたブログがほぼ皆無なのは不思議です)

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昭和電工の放水路。新島々の堰近くにあります。

昭和電工赤松発電所から流れる豊富な水で、農業用水として利用されているようです。

              ―信濃国の秦氏 その5に続く―
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酔石亭主

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