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信濃国の秦氏 その5


前回で和田堰の築造は秦氏の手によるものと推定しました。Wikiの記述もそうなっており、まず間違いなさそうです。秦氏は松本平の田畑に灌漑用水を供給する重要な役割を担っていたのです。調べて見ると、この地には他にも多くの堰が造られていました。

関東農政局ホームページより以下引用します。

平安中期に編纂された『和名抄(わみょうしょう)』によれば、松本市周辺には大井郷があり、安曇野には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷という郷(律令制における末端の行政区画)が記されています。また、朝日村には洗馬牧、洗馬庄(藤原系の荘園)。波田町には大野牧、大野庄。左岸には西牧、猪鹿牧などが記されています。牧とは朝廷の牧場を意味します。
 松本市の大井郷は、7世紀(8世紀とも言われています)、梓川から取水する大井堰(現和田堰)の開削とともに開発され、その範囲は新村・和田・島立・島内(いずれも松本市)と考えられています。島立、新村には条里制が施行されたようです。
 日本で最古の用水は、607年、聖徳太子が築造した五ヶ井用水(ごかゆようすい:兵庫県加古川市)とされていますが、この和田堰もそれと競うほど古い歴史を持っていることになります。


上記によれば、大井郷の成立は7世紀あるいは8世紀となります。大井郷の名前は和田堰(=大井堰)に由来しているのは明らかです。一方沙田神社と御乳神社の勧請は大化5年(649年)なので、時代的にはほぼ見合っています。これらから、和田堰が7世紀後半から8世紀にかけて造られ、秦氏がその築造及び管理・運営に当たったとの判断は間違いないと思われます。

なお五ヶ井用水に関しては「秦さんはどこにいる? その4」に書いていますので是非参照ください。この地には治水、土木技術専門集団の首長である秦川勝がいたとされ、実際の築造は秦氏の手によるものと推測されます。

ちなみに、松本市岡田地区には岡田神社が鎮座しています。地区内の灌漑用水は大口堰(松本市大字稲倉本郷地区)から供給されているのですが、大口堰の取水口付近には水口神社が鎮座しています。この神社は大口堰に向いていて、白雉5年(654年)、岡田神社と同時に勧請されたとのこと。勧請時期は和田堰の推定築造年代とほぼ重なりそうです。

もちろん神社の創建時期は伝承に過ぎず、本家本元である葛野大堰にしても築造年代は5世紀後半、6世紀後半、8世紀初頭と諸説あって確定していません。しかし秦広国の信濃国入植時期、各神社の創建年代、和田堰の推定築造時期に矛盾する点はないと思われます。


大きな地図で見る
岡田神社を示すグーグル地図画像。

岡田神社の詳細は以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/sinano/okada_title.htm

和田堰の築造年代を探るため、他の状況証拠を見ていきます。新村の安塚古墳群は8世紀初頭のものとされています。7世紀後半から8世紀初頭に築造された和田堰からの給水で豊かになった秦氏あるいは在地豪族がこの古墳を造ったとすれば、話の筋も通りそうに思えます。

和田堰は秦氏の築造で間違いなさそうですが、葛野大堰の場合この築造により川の名が葛野川から大堰川に変わりました。一方梓川の名前は変わっていないようです。堰がそれほど重要ではなかったのでしょうか?そんなはずはありません。和田堰が波田町に入った秦氏の最初の事業とすれば、最も重要なものだったはずです。

仮に梓川の名前自体が既に秦氏と関連しているのなら、変更する必要はないとも思えます。そこで梓川の名前の由来を見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている。


なるほど梓弓ですか。梓弓もWikipediaで見ていきます。

梓弓(あずさゆみ、あづさゆみ)は、神事などに使用されるアズサの木で作られた弓。
古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された。甲斐国や信濃国から都に献上され、現在でも遺品として残されている例がいくつかある(正倉院中倉の3張など)。

神事や出産の際の魔除けとあります。以前に秦氏で検討した鏑矢と同じみたいですね。出産と産の宮(沙田神社)も繋がりそうです。続いて鳴弦に関しWikipediaから引用します。

弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼。魔気・邪気を祓う事を目的とする。後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。

やはり鳴弦は鏑矢の元になった儀礼のようです。そして鏑矢は「秦氏の謎を解く その11」にて書いたように、秦氏が構築した平安京の謎と深くかかわっています。これだけでも秦氏との関係が推測されますが、万葉集(巻3-311)には以下の歌がありました。

按作村主益人従豊前國上京時作歌一首
梓弓 引き豊国の 鏡山 見ず久ひさならば 恋しけむかも


梓弓を引く(神事がしばしば行われ、弓の音色が響き渡る)豊国の鏡山を 久しく見なかったらさぞ恋しいことでしょう。

豊国は豊前国で秦王国です。「梓弓引き」が豊国の枕詞のように使われていることから、秦氏と梓弓の関係が浮き彫りになります。さらに長歌で見ていきます。

天皇、宇智の野に遊猟したまふ時、中皇命の間人連老をして獻らしめたまふ歌
やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
朝猟(あさかり)に 今立たすらし
夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


(お休みになっていた)わが大君(舒明天皇)が 朝には 手にとって撫でられ 夕べには そのそばに寄り立っていらして ご愛用の 梓の弓の、中弭の 音が聞こえます 朝狩に 今お発ちになるらしい 夕狩に 今お発ちになるらしい ご愛用の 梓の弓の、中弭(なかはず)の 音(弓を引いている音)が聞こえます

この長歌には様々な議論があるようです。しかし現在のテーマとは関係ないので取り上げません。まず、間人連老(はしひとの むらじおゆ)について考えてみます。間人とは波斯人でペルシャ人を意味しているとされます。

み執らしの 梓の弓の」は、「ミトラしの梓の弓の」で、古代ペルシャの神であるミトラ神を意味していると思われます。隠れた意味は、「邪気を払うミトラ神の梓弓」と言うことになります。ペルシャ系である間人連老ならではの技と思われませんか?

ミトラ神は太陽神であり、幼神ミトラは弓と矢を持った姿となります。ミトラ神の太陽神としての姿は天照大神に繋がり、弓と矢は秦氏の謎と連結します。関連性を追って行くと実に興味深いですね。

梓弓の万葉歌は数多く見られますが、以下のようにとても面白いものがあります。

梓弓 引見弛見 不来者不来 来者来其乎奈何 不来者来者其乎

梓弓引きみ弛べみ、来ずは来ず、来ば来そを、何ど来ずは来ばそを

梓弓を引いたり弛めたりするように、もう、来ないのなら来ない、来るのなら来るとはっきりさせて。それなのに、どうして来るだの来ないだのと…、(いい加減にしないと私怒るからね)

何となくパッソのTVCMに出てくる「でんでらりゅうば」に雰囲気が似ていませんか?

出ん出らりゅうば 出て来るばってん 出ん出られんけん 出ーて来んけん 来ん来られんけん 来られられんけん 来ーん来ん

出ようとして出られるならば、出て行くけれど、出ようとしても出られないから、出て行かないからね。行こうとしても行けないから、行くことはできないから、行かない、行かない。

口ずさんでいると、頭にこびりついて離れなくなりそうです。話が脱線しまくっているので元に戻します。

秦氏系の松尾大社には「鳴弦破魔弓神事」と言う儀式があります。これは、拝殿にて宮司が「松尾の神に祈らむ梓弓、弦の音聞けば悪魔退く」と和歌を唱え、弓の弦を三度鳴らし、疫鬼の退散を念ずる神事とされ、邪気祓いの鏑矢を天空に放つ「蟇目の儀」と同じとされています。秦氏と梓弓の関係がこの神事からも見て取れますね。

さらに「中皇命」は「中皇女」あるいは「中皇女命」の誤りであり、間人皇女 (孝徳天皇の皇后)とする説が有力とされています。間人皇女→間人連老→ミトラ神となればどんぴしゃりと思えます。なお聖徳太子の生母は穴穂部間人皇女ですが、間人皇女 とは別人です。穴穂部間人皇女が生母となると、聖徳太子にはペルシャ人の血が入っている?話がややトンデモ説寄りになってきたようです(~_~;)

反歌の「宇智の大野に馬並めて」は秦氏が開いたとされる大野牧を彷彿とさせます。

ミトラ神は日本に入り秦氏によって摩多羅神(秦氏の大酒神社祭礼である牛祭に出現する神)となりました。福岡県朝倉市杷木志波5458に鎮座する麻氐良布(まてらふ)神社は謎の神社とされていますが、その音から摩多羅神や天照大神との関連が推測されています。また天照大神をまつる伊勢神宮内宮の御手洗川は、ミトラ神川であろうと以前書いています。万葉集には以下のような歌もあります。

河内王を豊前国の鏡山に葬れる時、手持女王の作る歌三首。
豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠こもりにけらし 待てど来まさず
手持女王 巻3-418


(河内王は)豊国の鏡山の岩戸を立ててお隠れになったようだ。いくらお待ちしていてももうお帰りにはなられない。

鏡山で梓弓を引く神事が頻繁に行われたのは、この辺りに天照大神を葬った天の岩戸があったからとも推測されます。(注:鏡山は秦王国の信仰の中心である香春岳の麓にあります)天照大神と秦氏との関係は既に詳しく書いていますが、豊国に天の岩戸があるとすれば、ミトラ神を介した天照と秦氏の関係もより明確になってきます。

以上、梓川→梓弓(鏑矢)→豊国→ミトラ神→摩多羅神→天照大神→鏡山(香春岳)→天の岩戸と連想ゲームのように連結し、全部が相互に関連しながら秦氏と繋がっていきます。

よって梓川の名前は秦氏と関連し、和田堰の築造に伴い変更する必要がなかったものと推測されますが…、実はそうではありません。Wikipediaには、梓川が梓弓に関連すると言う記事の前に、以下のような内容が書かれています。

仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡とし、境界の川も「熱躬川」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された、とある。

秦氏より先に松本平に入った安曇族が、川の名を熱躬川(=安曇川)としたものの、668年に梓川と改称されたのです。668年と言う年代に注目ください。和田堰の想定築造年代である7世紀後半から八世紀初頭のちょうど中間の時点に当たります。つまり、梓川への改称は秦氏の入植後であり、和田堰の築造に関係すると思われる時点なのです。ここからも、梓川は秦氏が命名したものであったと理解できます。

引用や脱線が多く長くなり過ぎたので、今回はこれで終わります。

                ―信濃国の秦氏 その6に続く―
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