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信濃国の秦氏 その7

信濃国の秦氏
05 /27 2012

大野牧と波多腰姓に関しては未確認のままですが、取り敢えず白山の山麓周辺に秦氏の痕跡があると考えて、他の場所を見ていきます。白山の麓、淵東周辺には波多神社や仁王門、田村堂、阿弥陀堂などがあります。グーグル地図画像を参照ください。


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淵東(えんどう)周辺を示すグーグル地図画像。駅名は渕東です。

地図上には阿弥陀堂以外の所在地が記されていないのですが、全部阿弥陀堂周辺に集まっています。行き方は簡単で、渕東駅の手前を上波田阿弥陀堂に向かって進むだけ。すぐに仁王門や隣の波多神社、仁王門奥の田村堂、阿弥陀堂に至ります。駐車するスペースもありますので、車で入って問題ないと思われます。まず上波田一帯がどんな場所なのか解説板でチェックしましょう。

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解説板。

かつてこの地には若澤寺(にゃくたくじ)があり、田村堂や仁王門はその遺物とのことで、最も重要な存在が若澤寺であったとわかります。ただ寺は明治の廃仏毀釈により取り壊されてしまったとのこと。信濃日光と言われるほど荘厳なものだっただけに残念ですね。

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若澤寺を示す絵図の写し。何と豪壮な佇まいでしょう。

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山頂部。

白山社とあります。若澤寺は白山社の修験道がベースとなって創建されたものと推定されます。寺は山号を水沢山、あるいは慈眼山と言い、秦氏と関係の深い行基(668年~749年)の手で天平勝宝年中(749~758年)に創建されたそうです。有名寺院の創建を何でも行基にしてしまうのは問題ですが、若澤寺の創建に秦氏の関与もあったような気がします。

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「波田町誌」より。

画像右手の若澤寺の什物帳の所有者は波多腰氏であると記載されています。これも秦氏の関与を示すものと言えそうです。また波田氏が鎌倉時代から室町時代にかけて内田・埴原から大野牧の地頭として波田の地に移ったとあります。この記載内容が事実だとしても、和田堰の検討結果からすれば第二波の移住となり、それ以前に秦氏は同地に入植していたと推定されます。大野牧に関しては追って詳細に検討する予定です。

なお、若澤寺には坂上田村麻呂(758年~811年)も関与していたとのことで、平安時代の大同年間(806~809年)に東征の途次、南安曇郡穂高町の豪族が有明山にこもって抵抗したのを征服できたことを仏に感謝するために修復・造営せしめたそうです。なるほど田村堂のネーミングは田村麻呂に由来していたとわかります。田村麻呂に関しては以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82

江戸時代に壮大な七堂伽藍を構えた若澤寺は、信濃日光と称されるほど壮大な規模を誇った寺になりました。しかし廃仏毀釈により歴史の表から消え去ってしまったのです。

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仁王門です。

若澤寺の末寺、西光寺の仁王門だったとのことで、仁王門建立は金剛力士像(仁王像)造立の鎌倉末期と同じ時期のようです。

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内部の金剛力士像に関する解説板。

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田村堂です。このお堂は覆屋であり田村堂は建物の中にあります。

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解説板。

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田村堂。室町時代後期と推定される建立当初は総金箔貼りだったとのこと。

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丁石です。

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解説板。

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線刻の不動明王。

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解説板。天正2年(1574年)に建てられたとありかなり古いものとわかります。

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水澤不動尊。

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阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は若澤寺の末寺であった西光寺の地蔵堂が移築されたものとのことです。堂内に安置された阿弥陀如来像は江戸初期の作だとか。阿弥陀堂の近くに上海渡と言う地名があります。海渡(かいと)は垣外・垣内とも表記して、阿弥陀堂(或いは屋敷)の境界の外・内を意味しています。上波田の場合は阿弥陀堂が存在して、海渡の地名がセットになっています。

またかつて鼠海渡と言う地名もあったとのことで、これは波田町にある盛泉寺が「常和泉守」の開基であることに関連しているそうです。それは鎌倉時代の法燈国師の出自が常澄氏であり、常澄は「常に不寝見」の意で朝廷から不寝番を命じられていた一族であり、波田町の鼠海渡は「不寝番」があったところの地名とのこと。

実はこの地名、波田町における地名由来の一つに関係しています。常澄氏は八太造の子孫だったので、この地が波多となったと言うものです。この説では、八太造は安曇族の一支族(未確認です)とのことで秦氏とは関係なくなってしまいますが…。
(注:平成22年、波田町は松本市に編入されていますので、正式には松本市波田となっていますが、便宜上今後も波田町と表記します)

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波多神社です。

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解説板。

神社の名前とは裏腹に秦氏の関連を示すものは見当たりません。由緒には、「1143年に紀伊国から熊野権現を勧請して合祀したと伝えられる」と書かれています。熊野権現が合祀される前の状況はほとんど不明のようですが、「波田町誌」によると、神亀5年(728年)に地神が祀られたとも言う、とあります。これを創建年代とすれば、秦氏の入植から少し経過した時点と思われ、あくまで推測ながら秦氏の可能性も多少はありそうです。

この日はあれこれ見過ぎて、消化不良のまま終わりそうです。一つ指摘できるのは、白山を取り巻くように様々な歴史遺産が集積していると言うことです。疲れが出てきたので、安曇野みさと温泉室山ファインビューに向かいます。絶景の日帰り温泉が目的です。

               ―信濃国の秦氏 その8に続く―
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酔石亭主

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