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信濃国の秦氏 その13


波田町において波多腰姓の謎を解くことはできませんでした。となれば、信濃秦氏の原点である信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)に行ってヒントを探るしかなさそうです。

と言うことで、波田町を出て車を走らせます。松本市から北上し明科で403号線に入ると右手の山は虚空蔵山です。さらに進めば、麻績(おみ)村に入ります。村は北国西街道沿いに位置し、かつて麻績宿が設置されていました。今もその雰囲気が残っています。

310_convert_20120602040754.jpg
麻績村の古いお宅。

麻績宿に関しては以下を参照ください。
http://www.ichiro-ichie.com/03koshinetsu/nagano/omi/omi01.html

麻績の地名で連想されるのが麻績王と言う名前の人物です。時代が秦川勝の子である秦広国と近いので、ちょっと調べてみましょう。「日本書記」の天武4年(675年)4月18日には、三位麻続王に罪があり、因幡に流す。一人の子供は伊豆島に流し、もう一人は血鹿島(五島列島の島)に流すとありました。壬申の乱の関係で罪に問われたのでしょうか?Wikipediaの天武天皇の項には抵抗勢力の処罰とあります。

ところで、天武元年(672年)8月25日に大納言巨勢臣比等とその子孫が流罪との記事があります。何となく麻績王と対応しているような気がしてきました。

聖徳太子の関連では巨勢比良夫がいます。「日本書記」によれば、用明天皇2年(587年)7月、聖徳太子は仏教を守護するため物部守屋を討つのですが、この際巨勢比良夫が共に戦っています。当然秦川勝も一緒に戦ったのでしょう。(或いは秦川勝の父である秦国勝?)当時、秦氏と巨勢氏は共に敵と戦った盟友関係にあったのかもしれません。

秦川勝の生没年は不明で、6世紀後半から7世紀半ばの人物と見られます。秦川勝は644年に駿河国富士川周辺で、大生部多を討っています。587年に15歳であったと仮定し、650年頃死去したとすれば、80歳近い長寿を全うしたことになります。

問題は聖徳太子の子(「上宮聖徳法王帝説」による)とされる山背大兄王が 蘇我入鹿により皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))に暗殺されている点です。これに関連して秦川勝の名が出てこないのは、643年の時点で既に死去していた可能性もあります。

赤穂郡の坂越は秦川勝の終焉の地とされ、彼を祀る大避神社が鎮座し、郡内に21社もあったとされます。周囲には高取峠や高尾山など秦氏地名も見られます。ところが同時に、蘇我氏の影響がある須賀神社が幾つも鎮座しているのです。秦川勝は蘇我入鹿の迫害をのがれて坂越に移ったとされているのに、逃れた地には蘇我氏の影が濃いとはどうしたことでしょう?この点に関しては「秦さんはどこにいる? その23」でも少し触れています。

蘇我氏と秦氏の関係は非常にややこしいので、現地調査もしていない段階では何とも言えません。一応秦川勝が650年頃に死去した前提で考えると、波多腰氏とは秦川勝+巨勢比良夫=秦巨勢氏となりそうです。まだ、単なる推測の域を出ませんが…。

もう少し巨勢氏を見ていきます。巨勢胡人の子に巨勢大海(こせおおあま、生没年不明。推古天皇の時代の人物)がいます。この名前に注目してください。

大海=おみ=安曇族の海人系=麻績(おみ)とならないでしょうか?秦川勝の子で信濃国を統治した秦広国に対応する人物が安曇族と関係を持った巨勢大海とすれば、大海は麻績と繋がりそうです。以上から、麻績王と巨勢氏は何らかの密接な関係があったと思われます。巨勢氏が海人系の安曇族と関係を持ち、秦氏は既に海人系と関係があるので全体が繋がりそうになってきます。

麻績村からさらに進むと聖徳太子から秦川勝が賜った信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)です。そのまま北東に進むと長野市で善光寺があります。善光寺の名前で何かが閃きました。そう、善光寺の創建には確か聖徳太子が絡んでいたはずです。ちょっと調べてみましょう。まず善光寺縁起です。とても長いので簡略に書きます。

百済から献上された仏像に関し、仏教に反対する物部尾輿たちは尊像を難波の堀江に投げ捨てました。物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼした聖徳太子が難波の堀江で祈ると如来様は一度水面に浮上され、再び御姿を水底に隠されました。その頃、信濃の国に本田善光という人がいて、国司に伴って都に行った折、難波の堀江にさしかかりました。すると、水中より燦然と輝く尊像が出現。 善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

これだけではよくわかりません。別の資料に当たってみましょう。「伊呂波字類抄」の推古天皇10年4月8日に以下の記述があります。

信濃国人若麻績東人(本田多善光のこと)が京へ出向き、帰る日にこの仏を伝え奉る。背を離れず、麻績郷へ着くと、住まいを奉って寺とし、四十一年礼拝供養

若麻績東人とあります。麻績王と何らかの繋がりが感じられます。と言うことは、巨勢氏との関係も想定されます。面白くなってきましたので、さらに別の資料に当たります。「扶桑略記」です。内容は以下の通り。

推古天皇一〇年(六〇二)四月八日、仏の託宣があり、信濃国水内郡にお移しした。この仏像がすなわちいま善光寺の三尊である。ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌四月八日、秦巨勢大夫に信濃国へ請け送り奉るよう命ずる。

何とまあ、驚いて腰を抜かしそうになりました。秦巨勢大夫とあります。秦氏と巨勢氏は海人系を経由しなくてもダイレクトに繋がっていました。波多腰氏の祖先は秦巨勢大夫だったことになります。しかし、そう簡単に断定していいのでしょうか?

秦巨勢大夫を現代で書くと、例えば、鈴木田中大夫になってしまいます。名字が二つ並んだ人物などいません。秦巨勢大夫とは秦大夫と巨勢大夫をくっつけて表記したものと考えざるを得ないのです。ではどんなストーリーとなるでしょう?

推古天皇の時代、秦巨勢大夫に信濃国へ仏像を送るよう命じられるのは聖徳太子を除いて他にいません。命じられた秦大夫とは、聖徳太子より恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜った秦川勝を措いて他にいないのです。だとすれば、巨勢大夫とは今までの検討結果から巨勢比良夫しかいないことになります。

では、「伊呂波字類抄」に出てくる若麻績東人とはどんな人物なのでしょう?名前からして、麻績王と関連する人物に間違いないと思われます。そして麻績王は巨勢氏と関係のある人物です。全くの想像ですが巨勢大海の子が麻績王なのかもしれません。

ストーリーは以下のようになりそうです。聖徳太子は秦川勝に百済からの仏像を善光寺(実際には麻績郷)に運ぶよう命じた。秦川勝は盟友である巨勢比良夫に委託した。巨勢比良夫は自分たちと関係の深い若麻績東人に命じて実際に運ばせた。つまり秦川勝は元請けで、巨勢比良夫は下請け、若麻績東人が孫請けの関係となります。

(注:若麻績東人はほとんど合成語のようで、東国の人である、若い麻績と理解されます。長野県における若麻績姓を調べたところ、全体で13人と非常に少なく、内12人が長野市となっています。チェックしたところ、現在も若麻績東人の子孫ではないかと思われる方が―過去の歴史で色々変遷はあったようですが―善光寺の関係者としておられました。)

さてそうなると、波田町における波多腰氏の素性が見えてきます。信濃国における秦氏は、秦川勝の長男である長男秦広国が信濃国に移り住んで統治したのが始まりと考えられます。巨勢氏も同じ頃信濃国に入り、秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結んだのでしょう。「扶桑略記」に秦巨勢大夫とあるのは、その当時の印象が残っていたからではないでしょうか?しかし秦巨勢では「鈴木田中」と同じで姓としては成り立たず、波多腰に改名したと推定されます。

これで波田町の秦氏の実態が判明しました。秦広国傘下の秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結び波多腰姓となり、彼らは朝廷の政策で波田町に移住。和田堰を築造し大野牧を開いたのです。

なお「扶桑略記」は堀河天皇の寛治8年(1094年)までを扱っているので、平安時代に成立したとされています。「波田町誌」が想定する波多腰姓の成立時期は鎌倉時代以降ですから、それ以前に波多腰の元となる秦巨勢が存在している以上、波田町の秦氏は秦広国からそれほど下らない時代に、既に入植していたと推定されます。

上記のような観点からすれば、波田町における和田堰の築造と大野牧の成立時期、それらに対する秦氏の関与が波多腰姓とその成立時期とも矛盾することなく連結してきます。これで、めでたしめでたしと思ったのですが、なおも心中には不安が残っています。「波田町誌」は東の輿氏(巨勢氏)が波田町に移住した説を最も数多く掲載しているからです。この説を再度以下に記載します。

東の波多氏は巨勢氏であり西に移住した説
① 埴原・内田の地頭である波多氏は、昔は巨勢氏(輿)と称し鎌倉時代にこの地を領していたが、鎌倉時代末頃今の波田町に移住した。
② 波田氏と同族の巨勢氏が大和から埴原に移住し牧を経営し、今の波田町に移った。
③ 輿氏(巨勢氏のこと)は埴原の西越(にしこせ)地区に古くから住んでいた。波田氏が西に移ってから輿氏が埴原牧を相続し波多腰を名乗った。

まず、巨勢氏が牧を経営する能力があったかを知る必要があります。「日本書記」の天武14年(685年)には巨勢朝臣馬飼に畿内の役を任じた、とありますので、牧を管理する任に当たっていたことは確かなようです。年代的にも和田堰築造や大野牧の成立時期と見合っています。西越地区は中山の中山霊園近くに西越公民館があることから確認できます。


大きな地図で見る
西越公民館を示すグーグル地図画像。

となると、輿氏がポイントになりそうです。輿姓で検索してみると…、驚いたことに長野県全体で76人中、松本市が64人と圧倒的な人数となっていました。上記の説から、輿氏は松本平東部の埴原・内田周辺に集中している(未確認ですが)はずです。実際に輿姓が存在している以上、町誌の記載内容も無視はできません。

しかし上記の説は、どれも輿氏(巨勢氏)が波田町に移住して波多腰になったと見るのが正しそうに思えます。言い換えれば、7世紀後半の波田町には秦氏が既に存在しており、そこに輿氏が移住して改姓、或いは秦氏と婚姻し改姓したものと判断されるのです。

結論的には、波多腰姓の起源は秦巨勢大夫説と輿氏の波田町移住に伴う改姓説の二つがあり、どちらとは断定できない結果となりました。いずれにせよ「信濃国の秦氏」は同国における秦氏の存在を検討するものであり、波多腰姓成立の経緯はともかくとして、波田町に秦氏が存在していたことは間違いなさそうです。

                 ―信濃国の秦氏 その14に続く―
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