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記紀・風土記の秦氏 その1

記紀・風土記の秦氏
07 /06 2012

今まで秦氏に関してあれこれ検討してきました。しかし、基礎的な史料はあまり参考にしていません。基本史料の内容は他の方のブログやホームページに詳しく記載あり、改めて取り上げる必要性はあまりないと思ったからです。ただ、基本史料自体の中にも酔石亭主の視点から解釈可能なものもありそうで、やはり取り上げるべきと思い直しました。

そこで「古事記」、「日本書紀」、「風土記」を中心に秦氏関連の記事を拾い出していこうと思った次第です。もちろんこれ以外に、「新撰姓氏録」なども参照します。「記紀」や「風土記」に見られる秦氏関連記事はさして多くありませんが、拾い上げた記事を通して秦氏の実像に迫れればと思います。まずは「日本書記」巻第六 第11代垂仁天皇の記事から…。

「日本書紀」によれば、田道間守は垂仁天皇の命により常世の国に行き、苦労の末不老不死の非時(ときじく)の実(=橘)を持ち帰ります。ところが、天皇は既に死去していました。

それを知った田道間守は、「遥かに弱水を度る。是の常世国は、則ち神仙の秘区にして、俗の臻らむ所に非ず云々」と嘆き、自ら死を選びます。意味は「遥か遠い弱水と言う川を渡った。この常世の国は神仙の住む秘密の場所で、俗人が行けるところではない」と言ったところでしょうか。

この常世国とはどこにあるのでしょう?岩波文庫の「古事記」注では済州島あたりではあるまいかとする説がある、と書かれていますが、酔石亭主はミニ特異点であるホータン(巨丹、現在の和田)が常世国であると思います。ホータンに関しては以下Wikipediaより引用します。

タリム盆地の南、チベットへと向かう崑崙山脈の北麓に位置している。古代では「于闐」と称されるオアシス都市で、天山南路における要地であった。古くから白玉(ホータン玉)の産地として著名であった。仏教が盛んだったが、11世紀にカラハン朝が征服したことでイスラーム化が進んだ。


ホータン王国の詳細は以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD


大きな地図で見る
ホータンを示すグーグル地図画像。

巨丹は秦氏の謎解きにとって極めて重要な場所なので、カテゴリ「歴史に秘められた謎を解くその1」から「その10」において詳しく記載しています。是非参照ください。以降、上記記事をお読みいただいた前提で進めます。

まず、弱水と言う川のある土地が巨丹かどうかチェックする必要があります。巨丹は秦氏が日本に渡来するに当たり一時居住した中継地点であり、崑崙の地にあります。そして、西晋代の書『玄中記』には「崑崙之弱水」と書かれているのです。弱水とは多分、死と再生の象徴であるホータン玉を産出する白玉河を意味するのでしょう。これで弱水が巨丹であると確認できました。

不老不死の橘がある常世国と、死と再生の象徴ホータン玉を産出する巨丹は同じ場所であり、同じキーワードで繋がっていたのです。

次に秦氏は摩多羅神を奉じていますが、摩多羅神は毘沙門天でもありました。そして大唐西域記によれば、巨丹は毘沙門天の住む土地とされているのです。

以上から、秦氏の名前こそ出てきませんが、垂仁天皇の記事の中に秦氏関連で重要な内容が含まれているとわかります。

また巨丹において、世界は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の顕現したものであると説く華厳宗が成立し、それを日本に導入したのが何度か出てきた秦氏の良弁(東大寺の初代別当)です。聖武天皇は『華厳経』の教えに従って盧舎那大仏造立を発願しました。

華厳宗に関しては以下Wikipediaより引用します。

日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

東大寺のホームページには以下記載されています。

天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。

河内の知識寺の北には秦寺と呼ばれた教興寺があり、高尾山(鷹尾山)一帯は秦氏系の金知識衆が居住していました。知識寺も秦氏系の寺であったと想定されます。大安寺もまた秦氏系の多い寺となっています。

常世国にあるとされる不老不死の橘に関して、さらに見ていきましょう。橘氏の氏神を祀った梅宮神社の神官は代々秦氏が務めていますし、奈良県高市郡明日香村にある橘寺は、秦氏と関係の深い聖徳太子が自分の生誕地に創建し、寺の名は田道間守が常世国へ赴き持ち帰った橘の実を植えたことに由来しています。聖徳太子のブレーンである秦川勝に関しても以下の話があります。

「日本書紀」皇極天皇3年(644年)の記事によれば、東国富士川周辺の大生部多(おおふべのおお)という人物が虫を祭ることを村里の人に勧め、「これは常世の神で、この神を祭れば豊かになって若返る」と言って、民の財宝を捨てさせ貧しくさせた。民を惑わす悪行に秦川勝が怒り、大生部多を討ったとされます。

時の人はこれを見て以下のような歌を作ったそうです。
「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲らますも」

大生部多は虫を常世の神として祀り民衆を惑わしたのですが、この虫は橘の樹で生育し、蚕に似ている(=アゲハチョウの幼虫)とされています。蚕は変態する姿から死と再生の象徴となっています。

さらに、田道間守が嘆いた「俗人の臻らむ所」の「臻」に秦が含まれている点も留意すべきです。「臻らむ」とは秦氏が到った、すなわち日本に渡来したことから成立した言葉ではないかと推定されるからです。また「和田」と言う地名と秦氏は結び付いていますが、なぜか巨丹も現在では和田と呼ばれているのです。ちょっと不思議ですね。

以上から常世国とは死と再生の地である巨丹を意味していると理解できます。ところが、常世国は巨丹だけでなく日本をも意味しています。そこで、「日本書紀」の雄略天皇二十二年秋七月の条を参照します。ここには、浦島太郎の伝説が以下のように語られているのです。

丹波国余社郡(よさのこほり、与謝郡)管川(つつかわ)の人、水江浦島子、舟に乗りて釣りし、遂に大亀を得たり。便ち女に化為る。是に浦島子、感でて婦にし、相逐ひて海に入り、蓬莱山(とこよのくに)に到り、仙衆に歴り観る。語は別巻に在り。

別巻とは風土記逸文「丹後国」の浦の島子(浦島太郎)に見られる内容を意味しているようです。長い物語になっているのでここには記載しません。でも、なぜ同じ常世国が二つの異なる場所を意味しているのでしょう?それには中国の影響があると見られます。

秦の始皇帝は徐福に命じて蓬莱(日本)にある不老不死薬を探させました。徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう) という三神山があって、仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと奏上。不老不死を求める始皇帝はこれを許可したと言う話になっています。(徐福に関してはカテゴリ「富士山麓の秦氏」などで取り上げています)

不老不死を希求する中国の皇帝たちは、西の崑崙(巨丹)と東の蓬莱(日本)に目が向いていました。そして、この二つの場所は取りも直さず死と再生を司る秦氏の最重要拠点だったのです。秦氏を象徴するのは「豊」ですが、常世(とこよ)国とは秦氏が支配する豊(とよ)国すなわち日本であったのです。

また済州島が常世国であるとの説は、この島に秦姓が多く、徐福が三神山のひとつである瀛州( 済州島)の漢拏山に上陸したとの伝承があることに関係しているのでしょう。

以上、垂仁天皇の項に秦氏は出てこないのですが、秦氏に繋がる重要なメッセージが含まれていると理解されます。

                ―記紀・風土記の秦氏 その2に続く―

(注:本シリーズは連続して書かない点お含みください。気が向いたら史料を調べアップしていくスタイルにします)
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酔石亭主

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