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記紀・風土記の秦氏 その2

記紀・風土記の秦氏
07 /10 2012

今回は第15代応神天皇に関連する内容を見ていきます。秦氏にとって最も重要な内容が「日本書紀」に記されています。応神天皇14年に秦氏の祖である弓月君が百済より来朝し以下のように奏上します。

「臣、己が国の人夫百二十県を領いて帰化り。然るを、新羅人の拒くに因りて、皆加羅国に留れり」

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していました。しかし、新羅の妨害によって叶わず、全員が加羅国に留まっていると天皇に奏上します。天皇は武内宿禰の子である葛城襲津彦を派遣したのですが、3年経過しても襲津彦は帰還せず、応神天皇は16年8月平群木莵宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣。新羅を牽制しこの間に襲津彦と共に弓月君の民が渡来しました。

秦氏の祖がようやく日本に渡来でき、めでたしめでたし、と言いたいところですが、この記事には幾つかの疑問があります。まず、弓月君とその民が渡来したとは書かれていますが、秦氏の名前はどこにも見られません。

次に新羅が弓月君の渡来を妨害したとありますが、新羅の建国は356年となります。当時の新羅は北九州程度の大きさしかない弱小国家でした。一方応神天皇の在位は4世紀後半(370年以降)と考えられます。つまり当時の新羅は、弓月君の渡来を妨害するだけの実力がなかったと思われるのです。新羅が急速に国力を増すのは6世紀に入ってからです。

ちなみに、紀元前660年を神武元年とする「日本書記」の記述にそのまま従うと、応神天皇の在位期間は紀元270年~310年となり、新羅は存在していないため、単なる荒唐無稽な話になってしまいます。

秦氏の渡来に関して「古事記」の応神天皇の項には、「また秦造の祖が参渡り来つ」と極めて簡単に記載されています。さらに「新撰姓氏録」の山城諸蕃には、秦忌寸、太秦公宿禰同祖、秦始皇帝之後也、巧智王、弓月王、誉田天皇(謚応神)14年来朝、とあり秦氏の祖である弓月君が渡来したとここで確認できます。(注:姓氏録に関しては後で纏めて見ていきます)

応神天皇と秦氏の祖である弓月君が結びつけられたのは、八幡神が応神天皇であるとされていることによるのでしょう。では、弓月君の渡来はいつごろなのか?

応神天皇は想定実年代では370年から390年頃の天皇と思われ、秦氏関連の記事が比較的多い雄略天皇は460年代から480年代と見られます。秦氏は雄略天皇期に大和から山城国へと移住したと考えられ、葛野大堰が築造されたのもこの時代と想定されます。

だとすれば、少なくとも5世紀の半ば以前に、弓月君は日本に渡来していなければなりません。多分、5世紀の初め頃に渡来したのでしょう。ただ、渡来してまずどこに定着したかを考えると別の問題が出てきそうです。

さて、秦氏の大王かもしれない応神天皇に関してもっと知りたいと思い、以前に購入していた「興亡古代史」(小林恵子 文芸春秋)を開いてみました。小林氏によると、日本の史料である記紀の記述で古代史を解明することは不可能であり、東アジアどころか世界を視野に入れて日本の歴史を展望すべきとしています。

それは実に頷けるのですが、各論になると酔石亭主の能力ではほとんど歯が立ちません。例えば、応神天皇は五胡十六国の秦の苻洛が変身したもので、秦氏と関係の深い聖徳太子は西突厥の達頭(タルドウ)とのこと。

同氏は海外も含む膨大な文献を参考にして書いているので、単なるトンデモ説とは完全に一線を画しています。それらの文献を読んでいない酔石亭主のレベルでは、残念ながら内容に関して論じることは不可能になるのです。もしご興味があるなら、この超難解(あくまで酔石亭主にとってです)な本を読んでみてください。

                ―記紀・風土記の秦氏 その3に続く―
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酔石亭主

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