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記紀・風土記の秦氏 その4


前回で弓月君は応神天皇から大和朝津間腋上地(現在の奈良県御所市朝妻)を賜り、ここに居住したと書きました。秦王国のある九州を飛ばして奈良に直行するのはちょっとおかしいと思われます。そこで調べたところ、福岡県久留米市に御井朝妻と言う地名がありました。


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御井朝妻を示すグーグル地図画像。

ここは谷川健一氏が「白鳥伝説」(小学館)で邪馬台国に比定している場所です。弓月君はまず御井朝妻に居住してから豊前に移り、豊前より海路大和に移動して、朝妻の地名を持ち込んだのかもしれません。

それはさて置き、今回は摂津国の秦氏から始めます。

摂津国
氏族名     姓     同祖関係     始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王之後也 
秦人           秦忌寸同祖    弓月王之後也

河内国
氏族名     姓     同祖関係     始祖 
大里史     史    太秦公宿祢同祖  秦始皇五世孫融通王之後也
秦宿祢     宿祢            秦始皇五世孫融通王之後也
秦忌寸     忌寸   秦宿祢同祖    融通王之後也
高尾忌寸    忌寸   秦宿祢同祖    融通王之後也
秦人           秦忌寸同祖    弓月王之後也
秦公      公             秦始皇孫孝徳王之後也
秦姓                    秦始皇帝十三世孫然能解公之後也

和泉国
氏族名     姓     同祖関係     始祖
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王之後也
秦勝           同祖

摂津、河内、和泉といずれも過去に取り上げた場所です。河内国では高尾忌寸(鷹尾)が存在し、秦氏のシンボルが鷹である点も確認できます。そうした地域に秦氏が多く居住していたのは、「新撰姓名録」の内容からも明らかだと思います。

河内国には河内国茨田郡幡多郷(大阪府寝屋川市川勝町)があり、現在でも秦町や太秦の地名、伝秦川勝の墓もあって秦氏の中枢的エリアと思えます。


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一帯を示すグーグル地図画像。

「古事記」の仁徳天皇の条には以下の記載があります。

また秦人を役ちて茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅を作り、また丸爾池(わにのいけ)、依綱池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を堀りて海に通はし、また小橋江(をばしえ)を堀り、また墨江の津を定めたまひき。

秦氏の得意技である土木工事が記載され、後の京都における葛野大堰に繋がってきます。堤は現在も門真市宮野町に鎮座する堤根神社(つつみねじんじゃ)本殿裏に残っています。


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神社の位置を示すグーグル地図画像。

奈良県田原本町には秦庄があり、その南西には田原本町満田と言う地名が見られます。茨田の地名は秦氏によって田原本町満田より持ち込まれたものと思われます。


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田原本町満田の位置を示すグーグル地図画像。

この地域はまだ訪問していないので、実感として記事を書けません。いずれ同地を訪問した上で、詳しく書きたいと思っています。摂津国と和泉国も同様に簡単な記事は以前書いていますが、詳細は同地を訪問した上でとしておきます。

さて、今までの記事で不十分な点もあり、以下補足を書きたいと思います。

「その1」において「弱水」はホータン(巨丹、現在の新疆ウイグル自治区和田)と書きました。一方、「倭国伝」(講談社学術文庫)の「三国志」夫余伝に、夫余の北に弱水があると記載あり、注によるとこの川は松花江か黒竜江とのことです。しかし、中国東北部の寒い地方が常世国とすれば、常世国(蓬莱)イメージから大きくかけ離れます。よって弱水はホータンを指すとしておきましょう。

「その3」において徐福と秦氏の関係を書きましたが、日本における史料で両者の関係を探ることはできません。そこで中国から見た日本史が書かれている「倭国伝」を参照し、何かヒントがないか検討してみます。

まず「後漢書」(巻八十五・東夷列傳)を開きます。ここに徐福に関連して以下のような記述が見られました。

又有夷州及澶州。傳言秦始皇帝遣方士徐福将童男女數千人入海、求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此州、…以下略

また、夷州と澶州が(会稽郡の海の彼方に)ある。秦の始皇帝はそこに方士徐福を派遣し、徐福は幼い男女数千人を率いて海上に出て、蓬莱の仙人を求めたが会うことはできなかった。徐福は罰を恐れて帰国せず、その州に留まった。

一般的には会稽郡との位置関係から、夷州は台湾で澶州が沖縄とされています。しかし、夷州は単なる野蛮な国の総称であり特定の国を指してはいないと思われます。

「三国志」の魏志倭人伝には有名な邪馬台国の卑弥呼に関する記述があります。次に「隋書」の倭国伝を見ていきます。ここには倭国の王多利思比狐(聖徳太子)が隋の煬帝に国書を送り、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」と書かれていたので煬帝が怒ったとの有名な一文もあります。

続いて翌年裴清が倭国に派遣されますが、以下の記述が見られます。

又至竹斯國、又東至秦王国。其人同於華夏、以為夷州、疑不能明也。

また筑紫国に至る。又東の秦王国に至る。その人は中国人と同じである。それを夷州(野蛮な国)とするのは疑わしいが明らかにはできない。

大和岩雄氏の見解によると、秦王国は豊前にある秦氏の国で酔石亭主も賛同します。さて、「後漢書」で徐福は夷州、澶州に留まったとあり、「隋書」では中国人と同じ人が住む秦王国を夷州(野蛮な国)であるとするのは疑わしいが、この点を明らかにはできない、と記述しています。(注:大和岩雄氏は著書の「日本にあった朝鮮王国」で「疑不能明也」に関して別の解釈をしています)

「後漢書」と「隋書」の記述を突き合わせると、徐福は夷州である秦王国に来たとも言えそうです。けれども、この解釈には相当無理がありますね。もう少し中国側の記述が詳しいものであれば、徐福と秦氏をうまく結びつけられたかもしれません。本当に残念……。

                 ―記紀・風土記の秦氏 その5に続く―
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