熱田神宮の謎を解く その10


前回は尾張氏の拠点である松炬島(熱田神宮の元々宮の地)を見て回りました。日本武尊はここで宮簀媛命と出会い氷上の里への道を聞いたのですが、媛が聞こえぬ素振りをしたため、自分で目的地の氷上の里に向かったものと思われます。(注:実際には本ブログで既に書いた内容から判断して違うと思いますが、ここは一般論に沿っておきます)

と言うことで、私たちも大高にある氷上の里に向かいましょう。そこには熱田神宮の元宮とされる氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)が鎮座しています。祭神はもちろん宮簀媛命。鎮座地は名古屋市緑区大高町火上山1-3となります。訪問には車が便利ですが、電車の場合は名鉄常滑線名和駅下車か東海道本線大高駅下車となります。


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一帯を示すグーグル地図画像。名和駅と大高駅も見えます。

神社のすぐ北側には天白川が流れています。日本武尊の時代は、もうご存知のように火上山の手前まであゆち潟の海が広がっていました。ここでもう一度尾張古図を参照ください。

尾張古図
尾張古図。

熱田と大高がまさにあゆち潟の出入り口となり、二つの土地の戦略的な重要性が見て取れます。地図画像の火上山から斎山稲荷神社にかけては山続きとなっており、古代の大高はあゆち潟に突き出した岬のような状態であったと理解されます。


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一帯を示すグーグル地図画像。拡大すれば等高線も見えます。

そして、熱田と大高に抱かれるようにして松炬島がありました。一朝事があれば、熱田や大高から狼煙を使って松炬島に知らせが飛んだのでしょう。軍事的要衝である大高に戦上手の日本武尊がやって来たのは偶然ではなさそうです。

さて、グーグル地図画像を見ると面白い地名が発見できました。氷上姉子神社の北側に「常世島」とあります。熱田が蓬莱島と称され、大高が常世島と称される。両者の間には軍事戦略上だけでなく、蓬莱と常世と言う似通った表記があるのは面白いですね。常世の名から秦氏関連で思い浮かぶ話があります。

秦氏系とされる赤染氏は常世連(とこよのむらじ)の姓を賜っています。また「東海の秦氏 その1」において書きましたが、大生部多が蚕に似た虫を常世の神として人々を惑わしたので、秦川河勝が懲らしめたという話も「日本書記」の皇極天皇3年(644年)に記載されています。

蓬莱は徐福に関係し、常世は秦氏と関係し、その双方が尾張氏の拠点と繋がりを持っていました。但し熱田に徐福伝承は存在せず、秦氏の活動もほとんど見られないのです。実に悩ましいですね。

まあ、悩んでいてもはじまらないので続けます。かつてこの地は火高火上(ほだかひかみ)と称されていました。火高(ほだか)は安曇野に鎮座する穂高神社との関係も想像されます。安曇族も尾張氏も同じ海人系であることから似たような名前になったのでしょうか?音は「ほだか」なのに表記が火高であるのは、山上から狼煙の火が高く上がったことにちなむのかもしれません。

さて、ここまでに日本武尊は複数いて、初代尾張国造だった乎止与命が尾張版日本武尊、乎止与命の一男である建稲種命が東国版の日本武尊と書きました。となると、乎止与命の館は尾張氏の最重要拠点である松炬島にあったとしなければ筋が通りません。よって、大高の火上山にあった館は建稲種命の住居と考えられます。その住居跡に氷上姉子神社が創建され、後に火上山麓の現在地に遷座したのでしょう。なおWikipediaは以下のように記載しています。

仲哀天皇4年(195年)、天火明命の子孫で尾張国造だった乎止与命(おとよのみこと)の館趾の地に創建されたと伝えられている。持統天皇4年(690年)に火上山の麓の現在地に遷座。旧社地には元宮社が鎮祭された。
かつてこの地は火高火上(ほだかひかみ)と称しており、「延喜式」には火上姉子(ほのかみあねこ)神社と記されている。この地域に火災が度々起き、永徳3年(1382年)には火上姉子神社が被害を受けた事から、火高を大高に、火上を氷上と改めたとも伝わるが、同神社のパンフレットには「貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』には「従一位上氷上姉子天神」と記されていた」ともあり、この部分は若干混乱している。また、後に地名は「火上山」に復して現在に至る。
なお、「姉子」とは「夫のない乙女」の意味で、日本武尊が東征の帰途に宮簀媛命を偲んで詠んだ歌から付けられたと言われている。


東国版日本武尊である建稲種命は尾張の水軍を率いて転戦しますが、帰路伊豆から駿河の海上付近で水難事故に遭い亡くなります。記紀の日本武尊は三浦半島沖と房総半島に挟まれた走水(はしりみず)の海で海神の祟りに遭い、舟は難破寸前の事態に追い込まれます。その時、弟橘比売が神の怒りを静めようと海に身を投げ、やがて海は静まったとされます。この二つの話も実に似通っていますね。やはり東国版日本武尊は建稲種命だったのです。

では、日本武尊と宮簀媛命の二人が暮らした伝説の愛の館(とされる場所)に向かいます。まずは氷上姉子神社から…。(鎮座地は名古屋市緑区大高町氷上山 1)

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神社手前にある斎田。すぐ横が高速道路となっています。

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石柱。熱田神宮摂社とあります。

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神社の鳥居です。奥に向かって歩きます。

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参道はこんな雰囲気。

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鳥居越しに社殿が見えてきました。

熱田神宮境内に鎮座する別宮八剣宮の本殿を明治36年に移築した尾張造りの珍しい社殿です。

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社殿。

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拡大してもう一枚。

由緒は神社で無料配布している栞より引用します。やや長いですが…。

熱田神宮摂社(熱田神宮の祭神と縁の深い神を祭った神社)氷上姉子神社は、名古屋市緑区大高町火上山に鎮座する古社で、昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、尾張氏の祖神として、地元はもとより、広く当地方一円の人々の限りない崇敬と信仰を集めています。当社は、古代尾張の開拓神であった天火明命(あまのほあかり)の子孫で、当時の尾張国造(現在の地方長官)として、火上の地を本拠としていた乎止与命(めとよのみこと)の館跡(現在の火上山山頂近くの元宮の地)に、宮簀媛命(みやすひめのみこと)を御祭神として仲哀天皇四年(195)に創建された由緒深い神社です。
御祭神の宮簀媛命は乎止与命の女(むすめ)で、古代随一の英雄とたたえられる日本武尊が、東国平定からの帰途この地に留まられた際に結婚され尊、薨去後は神剣草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を奉斎守護して、やがて熱田神宮御創祀への貴い道を開かれた方です。このお社は持統天皇四年(690)に火上山のふもとの現在の地に遷座になり、尾張氏をはじめ多くの人々の崇敬を受けながら、約1,800年の歴史と共に今日に至っています。旧他社には元宮が鎮祭され、宮簀媛命の館跡として、又当社の創祀を語る地として、大切にされてきました。
その後、醍醐天皇の延長五年(927)に編纂された「延喜式」には、氷上姉子神社と記載され、又貞治三年(1364)の「尾張国内神名牒」に従一位氷上姉子神社とあって、古くからは格式の尊いお社であったことが分かります。…以下略。

Wikiは館跡を乎止與命のもの、栞は乎止與命&宮簀媛命のものと記載しています。しかし、松炬島に乎止與命の痕跡はありますが大高の氷上の里では見られません。よって館は宮簀媛命(=真敷刀俾命)と子である建稲種命のものであったと本ブログではしておきます。

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名古屋市教育委員会の解説板。

神社の栞は日本武尊が東国から帰って後に宮簀媛命と結婚したとありますが、解説板では東国に行く前に結婚したとあります。二人の日本武尊の存在がこうした混乱の元になっていると理解されます。

松炬島で真敷刀俾命(=宮簀媛命)と出会った乎止與命(=尾張版日本武尊)は、松炬島に館を建て、二人は仲睦まじく暮らします。二人の間にできた子供が東国版の日本武尊の建稲種命でした。建稲種命はあゆち潟を望む戦略的要衝であった火上山に館を建て玉姫と結婚します。彼は東国征伐の戦いに向かうのですが、帰路、伊豆、駿河沖で遭難し亡くなります。しかし彼は玉姫との間に二男四女をもうけていました。子供たちはそれぞれに大活躍するのですが、それはまた別のお話…。

我が子を亡くした真敷刀俾命の手許には尾張氏の神剣である天叢雲剣があります。建稲種命が子が十握剣で危機を脱出したことにちなみ、真敷刀俾命は剣の名前を草薙神剣に取り替えてしまいました。真敷刀俾命は我が子を偲ぶよすがとして草薙神剣を手元に留め置いたのですが、寄る年波には勝てず、神剣を一族にとっての聖地である熱田に納めたのです。これが熱田神宮の創始となりました。(注:実際には大化元年から数年の範囲内で女性神官である宮主媛命が熱田に祀った)

結局古代における熱田神宮の関係者は全て尾張氏だったのです。では、火上山にある宮簀媛命の住居跡(建稲種命&真敷刀俾命の住居跡)を見に行きましょう。場所は氷上姉子神社の道路を挟んで反対側です。

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鳥居です。

石柱には「末社 元宮」とあります。山道を登って行くと社がありました。

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神明社とのことで天照大神を祀っています。

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さらに登ると平場に出ます。

平場全体がかつての住居跡だったのでしょう。奥には社があります。

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社。

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石碑です。

倭武天皇皇妃 尾張国造之祖 宮簀媛命宅址と彫られていました。驚いたことに、日本武尊が天皇で宮簀媛命は尾張国造の祖と言う立場で記載されています。横に小さく熱田神宮宮司従五位角田忠行謹書とあります。熱田神宮としては関係する神をできるだけ大きく見せたかったのでしょう。その意味は熱田神宮の本宮訪問の際に詳しく検討してみます。

これでようやく熱田神宮の元宮まで辿り着いたことになります。宮簀媛命住居跡からさらに奥へと進むと急に景色が開けました。

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こんな景色です。

なお誰も書いていないと思いますが、住居跡の平場に向かう手前左手奥に妙な石碑がありました。

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神様の名を数多く刻んだ石碑。

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もう一つ。

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こんな社の後ろにも高い石碑が…。

裏を見ると明治29年とあります。100年以上前に建てられたようです。

これは多分御嶽教の礼拝所なのでしょう。御嶽教に関しては以下を参照ください。
http://www.nagano-c.ed.jp/seiho/risuka/2005/2005-05.pdf#search='%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E6%95%99'

火上山周辺は古墳が密集しており、一番古い兜山古墳は4世紀末のものとのことです。埋葬されているのは尾張氏の関係者なのでしょうか?


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兜山古墳所在地。地図画像ではブト山古墳とありますが…。

熱田神宮の謎を巡る旅も熱田神宮境外摂社である松姤社から始まり、元々宮である松炬島、元宮である大高と進んできました。次回はいよいよ本丸の熱田神宮に突入します。

                熱田神宮の謎を解く その11に続く
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