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熱田神宮の謎を解く その2

熱田神宮の謎を解く
10 /22 2012

まずは熱田神宮の歴史を簡単に整理しましょう。神社に興味ある方ならだれでもご存知の内容ですが…。

熱田神宮の主祭神・熱田大神は他の神社と異なりいわゆる神ではありません。かの有名な草薙神剣です。そしてこの神剣は天照大神の御霊代とされ、本宮の相殿神(あいどのしん)は天照大神、スサノオノミコト、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五神となっています。

ややこしいのですが、神剣が天照大神の御霊代なら熱田大神=天照大神でもあります。熱田大神が天照大神なら、なぜ相殿神としても祀っているのか理解に苦しむところです。多分、熱田大神=天照大神とされる以前に相殿神が決まっていたので外せなかったのでしょう。神剣の来歴は既にご存知と思いますが、簡単に触れておきます。

記紀によれば、高天ヶ原から追放されたスサノオは、出雲国を流れる肥の川(現在の斐伊川)上流の鳥髪山(現在の船通山)に降臨します。その地で八岐大蛇の生贄にされそうになっていた櫛名田比売(くしなだひめ)を救うため八岐大蛇を退治します。そして退治した大蛇の尾から出て来たのが天叢雲剣でした。スサノオは神剣を天照大神に献上。この剣は天皇の地位を象徴する三種の神器の一つとなったのです。

時代は神代から下ります。景行天皇の子である日本武尊は、天皇から東国の平定を命じられました。悩んだ日本武尊は伊勢神宮に叔母の倭姫命を訪ね、自分の境遇を嘆きます。それを聞いた倭姫命は、日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、この時点での名前は草薙神剣ではない)を授けます。

東国平定に出立した日本武尊は相模国の家基津(富士吉田市の明見一帯)で敵に欺かれ、草原の周囲から火を放たれました。最大の危機に直面した彼はこの剣で草を薙ぎ払い危機から脱出したのです。これにより、本来は天叢雲剣と呼ばれていた剣が草薙神剣と称されるようになりました。

なお草薙神剣で危機を脱出した場所が、駿河国の焼津ではなく富士吉田市としている点は、「富士山麓の秦氏 その11」を参照ください。

日本武尊は東国各地を転戦し尾張国に至って、初代の尾張国造の娘(とされる…)宮簀媛命と契りを結びます。その後日本武尊は草薙神剣を宮簀媛命の元に置いたまま伊吹山の神の成敗に向かいますが、悪い神の祟りに遭い、病を得て伊勢国能褒野(のぼの)で死んでしまいます。日本武尊は東国平定に草薙神剣を持って行ったのに、伊吹山の神を討つ際は携行しませんでした。この間の事情や宮簀媛命の実像には大きな謎があると考えられますが、後の回で検討します。

「熱田宮縁起」によれば、宮簀媛命は神剣を自分の手元に置いていました。しかし、年とともに衰えて来たので、神剣を祀るための社地を熱田に占定したとされます。熱田の地名は、カエデの木が自然発火して水田に倒れ、田の水が熱くなったので、その地を熱田と呼ぶようになったことに由来しているそうです。ほとんど伝説的なものですが、草薙神剣が熱田神宮に祀られるまでの経緯は以上の通りです。

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熱田神宮拝殿。

となると、熱田神宮の創建はいつになるのでしょう?日本武尊が亡くなったのは景行天皇43年(113年)になるので、宮簀媛命が当時20歳として50歳で衰えたとすれば、143年頃が熱田神宮の創建になると思ったのですが…。同神宮のホームページを見たところ、以下のように記載ありました。

113年, 景行天皇43年, 日本武尊、伊勢の国・能褒野(のぼの)にて 薨去(こうきょ) 草薙神剣を熱田の地に祀る。

ホームページは以下を参照。
http://atsutajingu.or.jp/jingu/about/history.html

熱田神宮の記述にはやや疑問を感じるので、別の角度から見ていきます。宮簀媛命は成務天皇5年に名古屋市の最高峰(198m)である東谷山に尾張戸神社を勧請したとされます。一帯は尾張氏の本貫地。周辺には多数の古墳があって尾張氏の重要拠点となっています。


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東谷山を示すグーグル地図画像。

成務天皇5年とは西暦何年でしょう?調べてみると西暦135年になり、その頃まだ媛が元気だったとすれば、やはり140年頃までは生きていたと考えられます。そうなると、113年は30年近くサバを読んでいるような…。でも上記の話は伝説に過ぎないので、これ以上追求はしないこととします。

熱田神宮の他の史料によれば熱田大神が会崎(或いは江崎)幡綾村(或いは機綾村)に座したのは大化2年(646年、或いは大化元年、3年)とされています。熱田大神は草薙神剣のはずなので、これが正しいとすれば、景行天皇の時代に登場した宮簀媛命が神剣を熱田に納めることはできません。

ただ宮簀媛命を個人名ではなく神事を行う女性神官・宮主媛命とすれば、大化2年前後において女性神官が社地を占定し神剣を遷座させたことになり、宮簀媛命でも一応の筋は通ります。結局大化の改新があった年の数年以内が実際の熱田神宮創建になりそうです。

ちなみに、「新修名古屋市史」には『「熱田本紀」孝徳天皇の大化元年に尾張の宿禰忠命等託宣によりて江崎の機綾村に遷し奉即今の大宮是なり』と記載あります。

話を伝説に戻します。衰えた宮簀媛命は神剣を奉じるため熱田の地に向かいました。お年を召していますから、当然途中でお休みも必要となります。それが名古屋市熱田区伝馬町1丁目に鎮座する笹社の境内社である南楠社です。

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笹社(笹宮)の境内。

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解説板。

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南楠社。小さな木の祠です。


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位置を示すグーグル画像。

笹社の御祭神は天宇受賣命ですが、その境内社である南楠社が熱田神宮の境外末社になっています。この神社にはかつて楠の大木があり、宮簀媛命が神剣を奉じ熱田に向かう途中、その楠の下で御休憩されたそうです。(愛知県の神社仏閣を見るとなぜか楠の古木が多くなっています。土地に合っているのでしょうか?)

これが事実とすれば、宮簀媛命の時代伝馬町までは陸であったことになります。媛は大高の氷上の里から船で伝馬町付近に上陸。船旅でお疲れになり楠の木の下で一休みしました。(注:氷上の里の場所や宮簀媛命に関しては後の回で詳しく書きます)しかしこの伝承にはやや疑問が残ります。一帯は当時海の下だったと考えられるからです。

話は変わりますが、金、土、日に熱田神宮一帯を回る場合、名鉄神宮前駅で降りて「スタバ」の前に行けば、無料のレンタサイクルが利用できます。(無料がいつまで継続するかは不明です)自転車で熱田神宮の南門前から伝馬町方面(南)に向かうと、すぐ下りとなります。そして伝馬町では平になっているのでここは当時海だったと考えられるのです。

自転車を借りる際に頂いた「熱田ぐるりマップ」には熱田一帯の古代の海岸線が書かれており、参考になります。

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マップの写真。

古代の海岸線と記された青い線が当時の海岸線です。南楠社は鎮座地このマップから南に外れますので、マップからも当時は海の下と推定されます。ただ、神社の鎮座地はしばしば変わりますし、宮簀媛命の御休息も伝説なので、どこかは定かでないが上陸した場所で御休息されたとでもしておきましょう。

いずれにしても以上のような経緯(伝説的経緯)を辿り、草薙神剣は宮簀媛命或いは女性神官・宮主媛命により熱田の地で祀られることになったのです。

              熱田神宮の謎を解く その3に続く
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酔石亭主

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