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熱田神宮の謎を解く その4


今回から熱田神宮のありようを詳しく探っていきたいと思います。でも、徐々に難しくなりそうで、思い通りに進むかどうか…。などと悩んでいても始まらないので、境内案内図を見ていきます。以下の熱田神宮ホームページをご覧ください。
http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/keidai/

広い境内に多くの摂社が鎮座していますが、熱田神宮のありようを知るには境内を探索するだけでは不十分。「その1」で書いたように時間軸や空間軸を広く取る必要があるのです。そのためには、現在の熱田神宮の前史や周辺部を見ていかねばなりません。

取っ掛かりとして、元文3年(1738年)に作られた名古屋古絵図を参照します。

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名古屋古絵図。図書館にあったものです。

古絵図を見れば一目瞭然ですが、現在の境内とは大きく異なっています。八剣宮の南に細長い敷地があり、松后社と記載されています。この妙な名前の神社は何でしょう?熱田神宮の境内案内図には見当たりません。別の資料で比較してみます。図書館の本に「尾張名所図会」などから作成されたかつての熱田神宮境内図がありました。

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かつての熱田神宮境内図。南が正門となりますので南半分を掲載。

これならわかりやすいですね。でも、道行はなぜ清雪門を通って逃げたのでしょう?神剣を奪いこの門を通る必要性があったとはとても思えませんが…。やはり道行が奪った云々は捏造だったのです。とは言え、道行の時代における境内の構成は不明なので、話を元に戻します。

かつての境内図を見ると、布曝女(そぶくめ)町に松姤社(まつごしゃ、まつこしゃ、しょうごしゃ、しょうきょしゃ)が描かれていました。古絵図ほどではないにせよかなりの敷地を占めており、重要な社と理解できます。では、現在の境内案内図になかったこの社が、今もどこかにあるのでしょうか?

と言うことで、早速松姤社を探してみます。位置関係からすると上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の東に当たりますが、その辺は日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)で違っています。日割御子神社の南西と考えて探すと、境内から外に出てしまいました。

境内の外は南に向かって下り坂となっています。かつては下り切ったところで海になっていたのでしょう。道を下って行くと「ひつまぶし」で有名な「あつた蓬莱軒」(神宮店であり本店ではありません)が店を構えています。

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あつた蓬莱軒。

店内はお客でいっぱいのようで、外でも何人か待っていました。蓬莱軒を過ぎるとすぐに国道一号線です。

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一号線手前から見た南門。

坂になっているのがはっきりわかります。一号線辺りが当時の海岸線だったと理解できますね。一号線を東方向に進むと…、ありました。松姤社を示す石柱と鳥居です。

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松姤社を示す石柱と鳥居です。結構奥が深そうです。

参道を真っ直ぐに進み左へほぼ直角に折れると、小高い場所に社が鎮座していました。

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社殿は神門の後ろに隠れています。

ちょうど「あつた蓬莱軒」の裏側に当たります。鎮座は朱鳥元年(686年)で鎮座地は熱田区神宮二丁目。「熱田ぐるりマップ」にある古代の海岸線では神社が海になってしまいますが、写真で見てもかなり高い位置にあり熱田台地のほぼ先端に近い場所と理解されます。


大きな地図で見る
松姤社の位置を示すグーグル画像。

「にしてつ名古屋」と「プレスイン神宮」の間を入りこんもりと森になった場所が松姤社です。祭神は宮簀媛命(みやすひめ、日本武尊の妻)、となります。どんな由緒の社か調べたところ、以下のような2説がありました。

かつてこの地の清流で媛が布を晒していたところ、日本武尊が通りかかり氷上の里(尾張国知多郡火上ノ邑(ひかみのむら)、「火高火上」(ほだかひかみ)とも称する、現在の大高近辺)への道を聞いたが、媛は聞こえないふりをして答えなかった。この故事により耳の神様として崇敬を受けている。松姤社一帯は布晒女(そぶくめ)町と呼ばれていたが、それは上記の故事に由来している。(注:布晒女町の名はアップした「かつての熱田神宮境内図」に出ています。ただし境内図では布曝女町。女が布を晒していたのが布晒女町の地名由来とは面白いですね)

日本武尊が東征に出向いている間、宮簀媛命は門戸を閉じて、誰の声も聞かず日本武尊の帰りを祈願した。ここで耳の病を祈ればすみやかに治るので、俗に聾神と言う。また熱田が松子島と言う名称を持つのは、この社号から出たものとのこと。(注:熱田が松子島と言う名称を持つとありますが、熱田は蓬莱島であり松子島は誤解と思われます。理由は読み進んでいただければ明らかになります。なおこの説は「尾張志」に記載あります)

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ご参考までに「尾張志」の記事。

二つの説は内容が日本武尊の東征前、東征後と異なっています。いずれにしても、松姤社が宮簀媛命と日本武尊の出会いの場であることから、この地で宮簀媛命が祀られることになったようです。しかし妙ですね。松姤社の鎮座地は海に面した場所のはずで、清流があるようには思えません。宮簀媛命と日本武尊の出会いは別の場所だった可能性もありそうです。

そこで調べてみると、松姤社の社名は松炬島(まつこじま、まつごじま、しょうごじま、しょうきょじま)に由来している可能性があると判明しました。(読みだけでなく漢字の表記も色々あります)松炬を「しょうきょ」と読んだ場合たいまつを意味します。ここでは松炬島(しょうきょじま)としておきます。

では、松炬島はどこにあるのでしょう?松炬島の所在地は「その2」において新羅の道行が幽閉された星崎一帯です。熱田神宮のありようが境内すぐ外の松姤社から松炬島へと広がって来ました。熱田神宮に対する位置関係はグーグル地図画像を参照します。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

左上の神宮前が熱田神宮です。熱田神宮の南南東に笠寺台地があり、名鉄線の本星崎から本笠寺、桜、呼続と続く一帯が往古は島に近い状態で松炬島と呼ばれていました。しかし、これだけでは当時のイメージが湧きません。実は養老元年の作成と称される尾張古図(猿投神社版)があります。

尾張古図
尾張古図の一部分です。

地図は不鮮明ですが、重要な地名を赤で囲んでみました。古図の下から大高、星崎、熱田を赤で囲んでいます。古図で見ると熱田は象さんの鼻が垂れさがったような形となっています。熱田ぐるりマップの古代における海岸線とほぼ一致しているのは凄いですね。

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熱田ぐるりマップ。左上の囲み部分が象の鼻(古代の熱田台地)です。

尾張古図では象の鼻の右下に丸い島状の土地があって先端部が星崎となります。松炬島は島ではないものの、島に近い形となっています。なお養老元年は717年なので日本武尊の時代はもっと島に近い状態であったと推定されます。

一番下の囲みは日本武尊が宮簀媛命に道を聞いた氷上の里(火上)のある大高です。大高と熱田に挟まれた入江が、かつてはあゆち潟(年魚市潟)と呼ばれていました。愛知県の県名はあゆち潟の「あゆち」に由来するとされています。

そして、熱田、松炬島、大高のいずれも尾張氏の重要拠点でした。松炬がたいまつを意味しているとすれば、航海の安全のために夜には海岸線に沿ってたいまつの火が燃やされた、或いは敵の襲来に供え、情報伝達をするための狼煙台があった場所とも考えられます。このため、酔石亭主としては松炬島(しょうきょじま)が正しいと考えました。

ところで尾張古図は偽図ともされています。しかし、総理府が1956年に作成した木曽川流域濃尾平野水害地形分類図をご覧ください。

地形分類図
水害地形分類図の一部分。

驚くべきことに、大高から熱田にかけての一帯は尾張古図と地形分類図がほぼ対応しています。松炬島に当たる笠寺台地も地形分類図ではっきりと示されています。島の南から東側の川が天白川で、北側が山崎川となり笠寺台地(=松炬島)は二つの川で挟まれていると理解できます。

「その1」で秦氏地名の分布が熱田から北に向かい、東に折れて瀬戸で尽きていると書きました。その分布は地形分類図の熱田を先端とした、象さんの頭から背にかけてのラインに沿っていると考えられるのです。

さらに不思議な点があります。尾張古図の真ん中右手をご覧ください。文字がはっきりしませんが、瀬戸、赤津を一つの赤で囲っています。(三つ繋がった赤囲いの真ん中の囲い)その下側の囲いが猿投山です。古図では何と瀬戸や赤津まで海が入り込んでいるのです。一方地形分類図において瀬戸は象さんの背の東側で図からはみ出しています。しかし、色は薄い青の可能性があります。

尾張古図通り瀬戸まで海が入り込んでいたとしたら、古図には養老元年どころか弥生時代以前の姿が投影されているのかもしれません。そんな馬鹿なと思われるでしょうが、瀬戸と言う地名の意味を考えてください。瀬戸は陸地に挟まれた狭い海路を意味しており、瀬戸内海がその典型になります。赤津も津は明らかに海を示しているのです。地名からすると瀬戸近くまで海が入り込んでいた可能性を否定できません。

もう一つ面白い伝説があります。猿投山の麓に鎮座する猿投神社の縁起書には「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ」とあります。天皇は、いつも玉座に侍らせていた猿が不祥事を起こしたので、憎んで伊勢の海に投げました。

今なら、どうやって猿投山から遠く離れた伊勢湾に猿を投げるのかと一笑に付される話となるでしょう。しかし、猿投山の足下まで海が迫っていたとしたら…、格段に説得力が増す話となるのです。荒唐無稽と思われる伝説にも、なにがしかの真実が含まれていると酔石亭主は考えています。景行天皇の伝説はそれを示す好例ではないかと思われます。

話が横にそれたので元に戻します。結局熱田神宮境外に鎮座する松姤社の伝承は、松炬島において日本武尊が宮簀媛命に大高にある氷上の里への道を尋ねたとき、媛が聞こえないふりをした話であったと理解されます。(或いは日本武尊の東征中、氷上の里で門戸を閉じていた話とも理解されますが、松姤社の社名と松炬島の関連からすればこの説は誤りとなります)

松姤社の社名は松炬島に由来し、松姤社の創建には松炬島における二人の出会いが反映されています。それが最終的に熱田神宮の創建へと繋がっていったので、熱田神宮の境内外に松姤社が鎮座することとなったのでしょう。

既に書いたように、熱田、松炬島、氷上の里のある大高のいずれも尾張氏の重要拠点です。そして熱田神宮のありようや、神宮が熱田の地に鎮座する前の歴史を知るには松炬島と大高を探る必要がありそうです。熱田神宮を巡る空間軸と時間軸がますます広く深いものになってきました。

                   熱田神宮の謎を解く その5に続く
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