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熱田神宮の謎を解く その5


「その4」までは何とかスムーズに書き続けられましたが、今回からは難しさが増してきそうです。筋の通らない部分があるとしたら、酔石亭主の力量不足によるものであり、あらかじめご了承ください。では、尾張古図をもう一度参照します。

尾張古図
尾張古図。

尾張氏は熱田、松炬島、大高とあゆち潟を取り囲むような場所を拠点としています。海人系で最も有名な一族は安曇族ですが、尾張氏も彼らに負けず劣らずの海人系氏族だったと推定されます。

話はまた横にそれます。尾張古図の熱田の上に赤で囲んだ浪越の地名があります。ほぼ象さんの頭部分になるでしょうか。ここから海岸線は東に向かっています。浪越と言えば指圧で有名な浪越徳次郎さんがいました。マリリンモンローが来日した際素手で彼女を指圧した、男ならうらやましい限りと思う人物です。

それはさて置き、浪越は現在のどこに当たるのでしょう?位置関係から推測すると海からは遠いと思われる現在の大須近辺になりそうです。そうなると、浪越の地名が大須一帯のどこかにあるかもしれません。早速チェックした結果、大須にはかつて浪越山と呼ばれた場所があり、そこには那古野山古墳がありました。以下Wikipediaを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E5%8F%A4%E9%87%8E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3


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古墳所在地を示すグーグル画像。大須演芸場やコメ兵などの建物に囲まれています。

名古屋の地名由来は浪越で、それが那古野に転じ、名護屋、名古屋になったとの説があります。酔石亭主はこの説が正しいのではと思います。かつては波が陸を越すような地だったものが、時代の経過とともに海が退いて野となり、浪越の「な」と「こ」を取って、それに「野」を付けて那古野になったものと想定されます。地形的に見ても、浪越は尾張氏の聖地である熱田の北端に位置しており、名古屋の地名由来はここ以外に考えられません。

名古屋トリビアはほどほどにして元のストーリーに戻ります。宮簀媛命は松炬島で日本武尊と初めて顔合わせします。この時点で彼女はまだ独身。では、誰が彼女の両親なのでしょう?父親は初代の尾張国造とされる乎止與命(おとよのみこと)で、母親は真敷刀俾命(ましきとべのみこと)とされます。乎止與命は熱田神宮摂社の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の御祭神で真敷刀俾命は下知我麻神社の御祭神となります。そして真敷刀俾命は尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘でした。

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熱田神宮境内イラストマップ南側半分。地図の左下側34が上知我麻神社となります。

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熱田神宮イラストマップ北側半分。地図の左上端の3が下知我麻神社です。

夫婦にしては随分鎮座位置が離れていますね。多分後世になって熱田神宮境内に遷座したのでしょう。

それはさて置き、ここで疑問が出てきます。一般的に、乎止與命は大和の葛城郡高尾張邑からやって来て真敷刀俾命と結婚したとされます。海人系尾張氏の拠点が大和盆地の高尾張とする説には疑問もありますが、ストーリーを進める都合上、高尾張ではなく単に大和から来たと仮定しておきましょう。

(注:尾張国一宮の真清田神社社伝によると、高尾張邑 から尾張に移住したのは 天火明命の子である天香山命とされますが、乎止與命以前の系図は後になって接合されたものと思われ、乎止與命の時代近辺に移住したと想定されます。でも実際には、朝廷と関係が深くなった尾張氏が出先機関を大和に設置したので、そこの地名が高尾張になったと考えるべきでしょう…)

一方、真敷刀俾命の父である尾張大印岐とは尾張の大忌寸と言う意味と受け取れます。忌寸(いみき)は、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓で新たに作られた姓( かばね)で、上から4番目。直(あたえ)姓の国造や、渡来人系の氏族に与えられたものです。

八色の姓が制定された時代の問題はさて置いて、尾張大印岐とは尾張における大豪族を意味していると考えられます。つまり、宮簀媛命はそのまま尾張氏の娘とも言いうるのです。であれば、大和から来た乎止與命とはいったい何者なのでしょう?彼の素性は尾張氏ではなさそうに思えてきました。

乎止與命は大和から尾張に移住してまず小牧に入ります(と仮定します)。その場所を「小針」と称したので、小牧市大字小針に鎮座する尾張神社には「尾張名称発源之地」と刻まれた石碑が立っています。

小牧は尾張古図の一番上の赤い囲みとなります。尾張氏は海人系なのでこのような岬状の場所を好んだのでしょうか?また三つ繋がった赤い囲みの一番上側は「段志味」で、ここは尾張氏の本貫地ともされ、熱田神宮に次ぐ大社であった尾張戸神社が標高198mの東谷山(名古屋市内における最高峰)に鎮座し、周辺には数多くの古墳があります。詳しくはWikipediaを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE


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東谷山を示すグーグル地図画像。

以上で尾張氏の拠点が岬の突端部と周囲を見渡せる山にあったと理解されます。彼らは実に戦略的な要衝を自分の支配下に置いていたのです。またも話がそれたので元に戻します。

時系列からすると乎止與命なる人物は大和から小牧に入った後、松炬島に入り、尾張氏の娘と思われる真敷刀俾命と結婚したことになりますが…、これって明らかに入り婿です。

だとすれば…、乎止與命自身はやはり尾張氏ではない…。「先代旧事本記」の「天孫本紀」によれば乎止與命は尾張氏の第十一代(諸説あり)となり、初代の尾張国造に任命されます。しかし系図を見ても、乎止與命は前の人物と接続していません。実態は以下のようではなかったのでしょうか?

大和からやって来た乎止與命なる人物が尾張大印岐の娘である真敷刀俾命に入り婿して尾張氏を称し、初代の尾張国造になった。

真敷刀俾命(ましきとべのみこと)の刀俾(とべ)は、Wikipediaによれば以下の通りです。

トベ(戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部)はヤマト 王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。 後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある。


日本武尊の時代からすれば、真敷刀俾命は女性首長で間違いありません。笠寺に戸部下と言う地名がありますが、これは真敷刀俾命の名前に由来するのではないのでしょうか?


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戸部下の位置を示すグーグル地図画像。

真敷刀俾命は乎止與命と結婚する前段階で、既に尾張の有力な女性首長であったと思われます。「天孫本紀」によれば、乎止與命と真敷刀俾命の間に一男がいて名前は建稲種命(たけいなだねのみこと)です。彼は熱田神宮の本宮に相殿神(あいどののかみ)として祀られています。日本武尊の東国遠征に従軍して幡頭(はたがしら)を努めた建稲種命は帰途、水難事故で死去し、遺体が幡豆岬に流れ着いたので村人が祀ったのが幡頭神社の始まりとされています。最後は無念ですが、さすがに女性首長の息子。随分東国で活躍したようです。

と、ここまで書いてきて、またも疑問が出てきます。宮簀媛命はどこに行ったのでしょう?「天孫本紀」の系図によると、乎止與命と真敷刀俾命との間に一男(建稲種命)がいるだけで、彼女は系図上に存在していないのです。

なのに宮簀媛命は、「日本書紀」では「尾張氏之女」、「古事記」によると「尾張国造之祖」、「尾張国風土記」逸文では「尾張連等遠祖」とされ、高い地位の女性として記されています。但し、系図としての位置付けはありません。

系図的に現れるのは「熱田宮縁起」で建稲種公の妹とされる部分からです。つまり尾張氏の系図が書かれた「先代旧事本紀」(平安時代初期の編纂)の「天孫本紀」では宮簀媛命は存在せず、記紀・風土記においては組み入れられていることになります。(注:媛は天武天皇期に神剣を天皇家の神器とするに必要な中継的人物として名前が創作された可能性があります。けれども、尾張氏側にとってはその必要性がなかったので載せなかったのでしょう)

一方、真敷刀俾命は尾張大印岐の娘で女性首長ですから、尾張国造之祖であってもおかしくはありません。そして宮簀媛命は真敷刀俾命の子ではない…。となると…、

真敷刀俾命こそが宮簀媛命だったのです。そう考えれば、宮簀媛命が尾張国造之祖や尾張連等遠祖と記載されている問題に合点が行きます。

「その2」で宮簀媛命は女性神官の宮主媛命と書きました。女性神官とは、巫女のようなものです。真敷刀俾命は女性首長であり、巫女としての普通名称は宮主媛命であったのです。首長であり巫女であるような人物の例は他にも見られますね。そう、かの有名な卑弥呼です。でも宮簀媛命=真敷刀俾命なら…、驚くべきことに乎止與命が日本武尊になってしまいます。

乎止與命は小豊命です。一方、日本武尊は小碓命。名前もかなり似通っています。乎止與命は高尾張出身かどうか不明ですが、大和から入り婿した人物です。そして彼が初代尾張国造になったとしたら、景行天皇から命じられて尾張に入り、国造に就任させられたと考えられます。

日本武尊(=乎止與命)は景行天皇の指示で尾張に向かい、松炬島において尾張氏の女性首長である宮簀媛命(=真敷刀俾命)に入り婿して初代尾張国国造となったとすれば、ストーリーの流れとしては実にスムーズになりませんか?

つまり、尾張を中心とした一帯における日本武尊は乎止與命であったのです。東国に行った日本武尊は多分乎止與命の子である建稲種命。熊襲を征伐した日本武尊は誰かわかりませんが、また別の人物だったのでしょう。いずれにしても、尾張版日本武尊と東国版日本武尊は別人物(親子)で2人の日本武尊がいたことになります。

                熱田神宮の謎を解く その6に続く

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