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熱田神宮の謎を解く その6


前回のストーリー展開はややアクロバット的になりましたが、今回はアクロバットの連続で悪戦苦闘しました。内容に疑問が生じた場合は酔石亭主の力量不足によるものなのでご了承ください。

さて、前回で日本武尊は2人いたと書きました。では、草薙神剣はどうなるのでしょう。2本あったのでしょうか?ここで「尾張志」の松姤社について書かれた部分を再度参照します。松姤社の祭神は一般的に宮簀媛命とされています。しかし「尾張志」の松姤社に関する記載内容を見ると、最初の方に、「一説に祭神は建稲種命云々」とあり、最後の方に十握剣(とつかのつるぎ)と言う言葉が出てきます。

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松姤社の由来。

読みにくいので十握剣の部分を平易に書くと以下のようになります。

また尊命記の旧説によると十握剣を祭るとされ、俗に御塚ノ宮と言うことから考えると、建稲種命の御塚で後になって社を建てたと言えるが、この地は古墳の様相を呈していないのでおぼつかない説だ。

おぼつかない説であるにせよ、十握剣と建稲種命がセットになっているのですから建稲種命が日本武尊であると示唆しているように受け取れます。

では十握剣に関して検討してみましょう。イザナギとイザナミの最後の子である迦具土神が生まれた際、イザナミは迦具土神の炎で焼かれて死んでしまいます。これを嘆いたイザナギは十握剣を振るい迦具土神の首を切り落とすのです。そしてこの剣こそがスサノオノミコトが八岐大蛇を退治した時の十握剣。八岐大蛇の尾から出てきた剣は、言うまでもなく天叢雲剣(草薙神剣)でした。

天叢雲剣に匹敵する由緒を持った十握剣には、天之尾羽張(あめのおはばり)との別称があります。この名前が気になりませんか?酔石亭主は大いに気になります。十握剣は尾羽張の剣、すなわち尾張の剣と考えられるからです。尾張の剣を尾張氏の建稲種命が持って何の不都合もありません。

もう一つ傍証があります。東京都目黒区下目黒3-1-2には、大同元年(806年)に創建(社殿が造営)された大鳥神社が鎮座しています。この神社には、日本武尊が東国を平定した後、神に感謝の意を表して十握剣を献納したとの伝説が存在しているのです。この由緒からも、東国版日本武尊(=建稲種命)と十握剣がセットになっている可能性が高くなってきましたね。大鳥神社概要は以下のホームページを参照ください。
http://www.ootorijinja.or.jp/

十握剣は拳10個分の長さを持つ長剣であり、東国を征伐するにふさわしい神剣ではないでしょうか?神剣を持った東国版日本武尊は東国に遠征し、相模国の明見で草を薙ぎ、以降剣の名前は草薙神剣となるのですが、この剣は多分彼が帰路に遭難した際、海底に沈んだものと思われます。(じゃあ熱田神宮の神剣はどうなるのかと疑問も出ますが、それは後ほど検討します)

次に、東国版日本武尊(=建稲種命)が東国平定において使用した剣が十握剣であることを全く別の角度から検討してみます。

千葉県香取市大戸521には大戸神社が鎮座しています。この神社は景行天皇の40年、日本武尊が蝦夷征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請したものとされています。概要は以下のホームページを参照ください。
http://homepage3.nifty.com/ootojinjya/index_menu.html

この神社は香取神宮と関係が深く、平安時代末期の記録では香取神宮の付属社でした。香取神宮の祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、利根川対岸の鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)です。両神社は蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であり、朝廷から極めて重要視されていたので、東国を平定した日本武尊も出向いているはずです。

経津主大神はイザナギが火神軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、十握剣(天之尾羽張)の根元についた血が岩に飛び散って生じた神の孫となります。そして天孫降臨に先立つ国譲りの神話において、武甕槌大神と経津主大神が遣わされ、武甕槌大神が十握剣を波の上に逆さに突き立てて、大国主命に国譲りを迫ったのです。如何でしょう?日本武尊と十握剣を結ぶ線が出てきたように思えませんか?

ところで、房総地方の駅家で香取神宮に行くルートはどのようなものだったのでしょう?調べたところ、内房沿いに南から、白浜駅―川上駅などを経て河曲(かわわ)駅から鳥取駅―山方駅―真敷駅を過ぎ、香取神宮に向かうものとなっていました。真敷駅は平安時代初期まで存在した古代交通の要衝であり、駅の推定地は現在の成田市猿山字間敷とされます。


成田市猿山を示すヤフー地図画像。

現在間敷の地名は見当たりませんが、猿山間敷古墳群があるので多分この辺りと思われます。なお、周辺に名古屋の地名があるので驚きです。真敷駅と香取神宮のほぼ中間点が大戸神社のある大戸となります。


全体を示すヤフー地図画像。

真敷駅が地図画像にある猿山の少し北、大戸神社が成田線と表示された線の字の東、香取神宮が佐原Pの西の辺りです。(うんと大ざっぱですが、地理的には全部が繋がっています)

さて、上記のストーリーの中で武甕槌大神と経津主大神、十握剣、日本武尊、蝦夷征伐(東国平定)が登場します。しかもです。古代の真敷駅まで存在していました。これって真敷刀婢命と関係があるのではないでしょうか?真敷刀婢命が一時的であれこの地に滞在していたから駅名が真敷駅となったのです。

香取神宮は物部氏と関係がありますが、東国への進出には尾張氏の協力があったとの説もあります。熱田の地には最初に物部氏が入り、その後尾張氏が進出したとの説さえあります。東国に出向いた建稲種命は、真敷駅で真敷刀婢命から十握剣を受け取って、蝦夷と戦ったのかもしれません。刀婢が刀であるのも示唆的です。

十握剣は物部氏との関係が想定され、石上神宮に祀られている「布都斯魂大神」は十握剣の霊威とされています。しかし、物部氏と尾張氏が東国に共同進出したなら、東国に駐在していた真敷刀婢命は物部氏の東国支社長に「うちの強い息子が蝦夷を征伐するのだから、十握剣をちょいと使わせて」などと言ったのかもしれませんね。物部氏の支社長は最強の武人日本武尊に恐れをなし、剣を差し出さざるを得なかったのです。こんな流れで考えれば、十握剣と東国版日本武尊(=建稲種命)の関係に一定の筋が通って来ます。

さらにです。大戸神社から南西に5kmほど行くと千葉県成田市松子と言う地名がありました。松炬島は松子島とも表記します。松炬島の元は成田市松子だったのかもしれません…?

以上、今まで誰も書いていない新説(珍説)でした。

真敷駅と推定される場所が成田市猿山字間敷なので、真敷は間敷(ましき)と関係する名前のように思え、尾張において同様のケースがないか調べてみたところ…、驚いたことにありました。

「日本書紀」を見ると、安閑天皇2年(535年)条には各国における屯倉の設置の記事があり、尾張国の間敷屯倉、入鹿屯倉と記載されています。宣化天皇元年(535年)では、間敷屯倉に蘇我稲目の命によって、尾張連が派遣されたとあります。「続日本紀」には、天平神護元年(765)3月、左京人散位大初位下尾張須受岐(すずき)、周防国佐波郡人尾張豊国等二人に尾張益城(ましき)宿祢の姓を与えたとの記載がありました。

間敷がどこかは学問的に特定されていません。ただ、春部(かすかべ)郡安食(あじき)郷(名古屋市北区味鋺から春日井市南西部、西春日井郡南東部にかけての一帯)との説があります。この説は間敷が安食に転じたというものですが、以下の理由から無理がありそうに思えます。

滋賀県東部に位置する犬上郡豊郷町は古代において犬上郡安食郷に当たるとされ、安食郷は百済からの渡来人阿直岐氏の拠点となっていました。つまり、安食の地名は阿直岐氏に由来する可能性があるのです。

しかし、入鹿屯倉は犬山の入鹿池の一帯と思われるので、それに小牧市(尾張の地名の元となったとされる小針がある)を挟んで隣接する春日井市一帯(数多くの古墳もある)の一定地域を間敷とするのは納得できそうです。


間敷屯倉が含まれると想定される一帯のヤフー地図画像。

古文では間敷が「有間敷(あるまじき)」(あってはならない)と言う否定語で頻繁に使われます。例えば、「油断有間敷候」なんて具合ですね。有ってはならない場所だから所在地を特定できないのでしょうか?ちょっとしたミステリーです。

それはさて置き、古代の尾張南部は尾張氏の勢力下であったものの、尾張北部には丹羽氏と物部氏がいたと考えられます。5世紀後半から6世紀初めには尾張氏の勢力が強くなり、尾張をほぼ支配下に置いたと推定されます。真敷刀婢命の子である建稲種命は邇波県主(にはのあがたぬし、丹羽氏)の祖大荒田命(おおあらたのみこと)の女・妃玉姫と結婚しました。

こうした尾張氏と丹羽氏の婚姻伝承は、尾張氏が勢力を増し丹羽氏を支配していく過程が反映されているとも思えます。そうなると、乎止與命と真敷刀婢命の婚姻時期も5世紀後半から6世紀にかけてとなり、日本武尊の時代からは400年近く下ってしまいます。でも、一般論としてはこちらが正解に近そうです…。

真敷刀婢命の名前が間敷に由来するものであれば、彼女は尾張北部を本拠とした丹羽氏の出身(或いはその他の豪族の娘)であった可能性も浮上します。しかし仮にそうだとしても、彼女は尾張大印岐の娘である点、間敷屯倉に尾張連が派遣された点、尾張益城(ましき)宿祢の名前などを考慮すれば、既に尾張氏となった人物と言えそうです。或いは丹羽氏と尾張氏が婚姻関係を結び間敷にて生まれた娘が、尾張氏の拠点である松炬島に移ったとも考えられます。

色々想像できますが、おそらくは、尾張氏が尾張北部を自分たちの支配下とし始めた頃、尾張大印岐が間敷を含む尾張北部の管理に松炬島から派遣された。そこで生まれた娘に間敷の地名を取って真敷の名を付けた。彼女が長じて、巫女としての才能、政務の才能を発揮してきたので、尾張大印岐は彼の本拠地である松炬島の管理運営を任せた。そこに日本武尊(=乎止與命)がやって来て、意気投合した二人は結婚した。と言うのが想定されるストーリーとなりそうです。

と言うことで、真敷刀婢命は尾張氏であるとの前提で話を元の伝説に戻します。東国版日本武尊(=建稲種命)が持っていたのは十握剣。では、尾張版日本武尊(=乎止與命)が持っていた草薙神剣は何なのでしょう?

この神剣は当初天叢雲剣と称されていました。一方、尾張氏の系図では天火明命の孫に天村雲命という人物が存在しています。天村雲命が所持していた剣が尾張氏代々に伝えられて宮簀媛命(=真敷刀俾命)の手に渡っていたとしたら…、天叢雲剣は尾張氏の神剣となります。

なおWikiによれば、天叢雲剣が現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説があるとのことです。これはおかしいですね。この地に尾張氏の遠い先祖とされる天村雲命がいたから村雲町になったとすべきではないでしょうか?

伝承のまま書きますと東国から尾張に帰った日本武尊は宮簀媛命と結婚し、草薙神剣を媛に預け伊吹山の神を討ちに行きます。この話を酔石亭主の視点で整理し直すと、東国平定に行った日本武尊は建稲種命で十握剣は彼の死と共に海底に沈みます。尾張氏に代々伝わる天叢雲剣を持たず伊吹山に向かった日本武尊(=乎止與命)は、伊吹山で病を得て伊勢国で亡くなります。両者の時系列は伝承とは逆になっていると考えられます。でも、どうして乎止與命は神剣を媛に預けたままにしたのでしょう?

神剣は尾張氏にとって神にも等しい存在でした。入り婿であった尾張版日本武尊は立場上その剣を持って伊吹山に向かうことはできません。もちろん、実際には媛に預けたのではなく、尾張氏の祖ともされる宮簀媛命(=真敷刀俾命)が祀る剣であり続けたのでしょう。

その後宮簀媛命(=真敷刀俾命)の元にあった天叢雲剣は東国版日本武尊の勇ましい武功を取り入れ、草薙神剣と名前替えされたものと思われます。つまり草薙神剣は途中で名前替えがあったものの、最初から最後まで尾張氏の祀る神剣であったのです。

以上で、日本武尊は草薙神剣を携えて東国平定へと赴いたのに、なぜ伊吹山の神を討ちに行く際は持たずに出立したのかと言う大きな謎が解けてしまいました。

酔石亭主の視点から見ると熱田神宮の祭神にも大きな謎があります。熱田神宮の主祭神は熱田大神でそれは草薙神剣(及び神剣を御霊代とする天照大神)でした。だとしたら、熱田神宮に相殿神として祀られるのは草薙神剣にゆかりのある神でなければなりません。相殿神として祀られているのは、天照大神、スサノオノミコト、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五神です。

五神と神剣との関係を伝承に沿った形で再度見ていきます。スサノオノミコトは十握剣を振るって八岐大蛇を倒しその尾から天叢雲剣を取りだしました。スサノオは天叢雲剣を天照大神に献上します。景行天皇から東国平定を命じられた日本武尊は、伊勢神宮で倭姫命から天叢雲剣を授かり、相模国の草原で周囲から火を放たれた時、この剣で草を薙ぎ払い危機を脱出。以降剣は草薙神剣と呼ばれるようになりました。

東国平定を終えた日本武尊は尾張に至り宮簀媛命と契りを結びます。その後、伊吹山の悪神の討伐に赴きますが、神剣は持たずに出かけ、病を得て伊勢国で亡くなります。宮簀媛命は神剣をしばし手元に置きますが、自分の衰えを知り神剣を熱田の地にて祀ることとしました。

さて、上記のストーリーから天照大神、スサノオノミコト、日本武尊、宮簀媛命はいずれも神剣に深く係わっていると理解されます。しかし、建稲種命はどうでしょう?なぜ草薙神剣のストーリーと直接関係のない建稲種命が相殿神と言う重要な地位で祀られているのか不思議だとは思いませんか?また宮簀媛命の父であり建稲種命より重要なはずの初代尾張国造乎止與命はなぜ相殿神として祀られていないのでしょう?

本記事をここまで読んだ方は、もう答えられますね。建稲種命は草薙神剣(=十握剣)を手に東国で大活躍した日本武尊だったから熱田神宮に相殿神として祀られているのです。一方、乎止與命が相殿神として祀られていないのは、相殿神として既に日本武尊が祀られているため、乎止與命はその陰に隠れるしかなかったからです。

加えて、乎止與命は初代尾張国造ですが建稲種命のような華々しさはありません。だから摂社である上知我麻神社の祭神として祀られているのです。神剣を持って東国を転戦した日本武尊は建稲種命。神剣を持たずに伊吹山の神を討ちに行って返り討にあった日本武尊は乎止與命。両者を比較して見ればどちらが真の日本武尊にふさわしいかすぐに理解できます。よって乎止與命は名前が出ず、相殿神である日本武尊の陰に隠されてしまったのです。

以上、日本武尊の行動の謎も、相殿神の謎も、酔石亭主の視点からは簡単に解けてしまいました。(注:五神に関しては本地垂迹説の影響があり、また神の名前も変動し、イザナミやクシイナダ姫が入っていたこともあります。これに伴い、日本武尊や天照大神がはずされました。天照大神がはずれるのは、さもありなんと思えますし、日本武尊も建稲種命が入っていれば十分ですから、これも理にかなっていそうです。その建稲種命は、最も古くから相殿神として祀られていたと推定されています)

日本武尊と草薙神剣。いずれも複数存在し、どちらも尾張氏の関連になると理解できますね。結局、朝廷が尾張氏の剣を天皇家の三種の神器とするストーリー作りのため創作された人物が、日本武尊と宮簀媛命と言うことになります。もちろんこの二人は全く架空の存在と言う訳ではなく、彼らのモデルとなる尾張氏の有力者が、既に書いたように存在していたのです。

神剣を自分たちの神器にすることと、剣の正統な所有者である尾張氏への配慮が組み合わさって出来上がったのが、スサノオノミコトから始まる一連の草薙神剣創作ストーリーと言えるでしょう。

こんな物語を仕立て上げた創作者は、飛び抜けて賢い人物と思われます。出雲やスサノオ、天照大神、伊勢神宮、日本武尊など神代から古代にかけての最重要人物を動員し、尾張氏への配慮もした上できちんとストーリーを組み立てているのですから…。それだけではありません。朝廷は尾張氏が自分たちの系図を皇祖神天照大神に繋げることまで黙認していたのです。参考までに尾張氏の簡略な系図を以下記載します。

天照大神―天忍穂耳命―天火明命―天香語山命―天村雲命…乎止與命―建稲種命…

「その2」で、熱田神宮のありようには、かなり無理な操作が行われている気がしないでもない、と書きましたが、その根源にはこうした根っこの部分があったのです。本来尾張氏の社(熱田社)に祀られていた神剣を、天皇家の三種の神器としてしまったため、主祭神も草薙神剣を御霊代とする天照大神になってしまい、その結果、天照大神は主祭神であり相殿神でもあると言う奇妙な祀られ方になってしまいました。

いやはや、小さな松姤社がとんでもない話にまで発展したようです。(注:書いた内容はあくまで酔石亭主の独自解釈であり、これが真実であると主張するものではありません)

さて、松姤社の創建は朱鳥元年(686年)でした。一方、草薙神剣が熱田神宮に返還されたのも同じ年です。この二つの事実の間には何か隠された意味がありそうに思えます。どなたか解明いただければありがたいのですが…。

              熱田神宮の謎を解く その7に続く
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