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熱田神宮の謎を解く その12

熱田神宮の謎を解く
11 /02 2012

今回は楊貴妃伝説を探るので、境内にある伝承地を目指します。拝殿の東には真新しい神楽殿があります。(位置関係は「その11」の境内地図を参照ください)

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神楽殿入口。

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花崗岩らしき石が…。

建物を支えているのでしょうか?後で聞いたら単なる飾りらしいのですが…。

神楽殿脇を北に歩くと土用殿です。

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土用殿。

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解説板。

さらに北へと進みます。するとここにも大きな楠が。

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大楠です。大楠の先には清水社があります。目的地が近くなってきました。

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清水社。

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解説板。

そして清水社の脇には清水の湧き出し口があります。

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清水の湧き出し口。真ん中に石が鎮座しています。

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解説板。

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もっと接近。

解説板にあるように、この石がかつて存在し楊貴妃の石塔の一部とされています。この場所は今はやりのパワースポットとされているようで、上知我麻神社で若いカップルがどう行けばいいのか聞いていました。

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石塔部分。

石塔の一部であれば間違いなく加工した痕跡が見られるはずです。そう思って目を凝らしたのですが、苔に覆われた自然石にしか見えません。本当に石塔の一部であったのか疑問です。ここで熱田神宮における楊貴妃伝説がどのようなものであったかを見ていきます。その内容は以下のようなものでした。

唐の第6代皇帝(在位期間:712年 ~ 756年)である玄宗が日本を侵略しようとした。これを知った日本の神々は鳩首して対策を協議し、その結果熱田の大神が楊家に生まれて楊貴妃に変身することとなった。楊貴妃は首尾よく玄宗の心をとろかせて、日本侵攻を思いとどまらせた。しかし安禄山の乱が勃発し逃れる途中楊貴妃は殺された。楊貴妃はたちまち元の熱田大神に戻り、船に乗って尾州智多郡宇津美浦(うつみうら、現在の内海)に上陸、熱田神宮に帰還した。

実に面白い内容ですが、その後のストーリーも見ていきましょう。白楽天(772年~ 846年)の「長恨歌」には楊貴妃を失った玄宗が彼女を忘れられず、方士を派遣してその行方を探させたとあります。

長恨歌は紫式部や清少納言など多くの日本人が最も愛好した詩であったため、この話にはさらに尾ひれがついて、方士が辿り着いたのが蓬莱の地である熱田で、方士は熱田神宮の東門である春敲門を叩き、玄宗の意思を楊貴妃すなわち熱田大神に告げたとなってしまいました。

さて、熱田大神とは草薙神剣ですが、この話の場合は神剣を御霊代とする天照大神(女神としての天照大神)となります。すなわち日本の危機に際し日本の最高神である天照大神自らが御出馬され、楊貴妃に変身して玄宗をたぶらかせ、日本を救ったことになります。(或いは天火明命が女装したのかも…)最近は日中関係がごたごた続きなので、再度御出馬願う必要がありそうですね。

次に、伝説の内容で玄宗が派遣した「方士」と言う言葉が気になります。秦の始皇帝が蓬莱の地にある不老不死薬を探すため派遣したのが方士徐福でした。探し求めるものは異なっても、探したのは方士であり、ここに共通性が見られます。

玄宗時代の方士も、当然蓬莱の地である日本についての知識を持っていたはずです。平安時代中期に成立した「宇津保物語」には既に徐福が描かれていることから、日本側でも方士と徐福の関連性に一定の認識はあったと思われます。

ところがです。白楽天があまりにも日本で有名であったため、本来徐福伝承と結合すべきはずの蓬莱の地(=熱田)が楊貴妃伝説と結合してしまい、熱田には徐福伝承が存在しない結果となってしまいました。熱田における楊貴妃伝説は平安時代中期以降に成立したものと思われます。

「その1」で、熱田が蓬莱の地であるのに徐福伝承が見られないのは不思議だと書きましたが、上記がその答えとなります。

清水社近くにあった楊貴妃の墓とされる石塔は、貞亨3年(1686年)における修復の際に廃絶され、今は写真のように清水の中に石塔の一部とされる石が残されているだけです。

室町中期の禅僧である万里集九は大田道灌の招きで関東に向かう前、熱田に立ち寄り、楊貴妃の墓に詣で、「重陽に熱田の楊貴妃廟に謁す」との表題の詩を残しています。熱田神宮の楊貴妃伝説はかなり長い時代に亘り、人口に膾炙されてきたのです。

熱田は蓬莱の地であるものの、徐福伝承と秦氏の痕跡はなく、楊貴妃伝説が残った場所でした。また熱田は尾張氏の拠点であったのですが、天皇家が尾張氏の剣を自分たちの三種の神器とする目的で草薙神剣ストーリーを創作したため、熱田神宮のありようにねじれが生じ、幾つかの謎が残る結果となったのです。そのねじれを元に戻す作業を試みたのが「熱田神宮の謎を解く」のシリーズでした。うまく行ったかどうかは、それこそ神のみぞ知るですが…。

全体を通してみると、熱田神宮の本来のありようは尾張氏そのものであると言っても過言ではなさそうです。その「尾張」の地名由来には幾通りも説があります。尾張氏が大和の高尾張邑から移住した場所が小牧の「小針」であったところから、尾張になった。一方、「尾張志」によれば、 小針は、かつて「小冶田」、「小墾」、「尾冶」とも表記したとあります。

小治や小墾などは開墾を意味しており、小墾田宮は推古天皇の宮殿です。他には、八岐大蛇の尾を割ったから「尾割」で尾張になった。八岐大蛇の尾を割ったら「尾羽張剣」が出て来たので、尾張になった。知多半島が尾のように張り出しているところから尾張になった。等々…。

小治や小墾が尾治に転じ尾張になったとするのが最も一般的な地名由来に思えますが、諸説あってどれが正しいのかはさすがに決められません。

「熱田神宮の謎を解く」はこれにて終了です。でも、まだ書き足らない事項も相当ありそうなので、折を見て関連する記事を同じ記事タイトル或いは別の記事タイトルで書いていく予定です。熱田神宮などを探索される場合、本記事に沿って各地を訪問いただければ、2日で全部見て回れると思います。ただし、名鉄神宮前駅の無料レンタサイクルは年内で終わりのようです。
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酔石亭主

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