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熱田神宮の謎を解く その16 二子山古墳

熱田神宮の謎を解く
11 /08 2012

断夫山古墳の被葬者は本当に尾張連草香なのでしょうか?また、尾張連草香は本当に尾張氏なのでしょうか?こう訳がわからなくなると、記事タイトルは「絶対解けない尾張氏の謎」とでもした方が良さそうな気分ですが、このまま続けます。

「その15」で書いたように、今回は目子媛を見ていきます。断夫山古墳と同時代の6世紀初めに築造されたとする古墳に味美二子山古墳(あじよしふたごやまこふん)があります。全長約95mの前方後円墳で、この古墳は墳形や出土品が断夫山古墳と類似していることから、両古墳の被葬者は何らかの関係があった想定され、目子媛が被葬者であるとの説が有力です。もちろん断夫山古墳と同様に物的な証拠が出ている訳ではありません。

古墳の所在地は春日井市二子町で、名古屋市北区から春日井市西部にかけては180もの古墳群があったそうです。でも、ほとんどが都市化の波に飲まれて、或いは別の理由で消滅しています。この一帯においては、庄内川のすぐ北に位置する味鋺(あじま)古墳群が5世紀の初めに築造され、6世紀になり味美の古墳群が築造されたようです。では位置関係を見ていきましょう。


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グーグル地図画像。

名鉄小牧線の味鋺(あじま)駅と味美(あじよし)駅の間に二子山公園があり、ここが味美二子山古墳の所在地です。早速行ってみましょう。

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味鋺駅の表示板。これを(あじま)と読める人は少ないと思います。

駅から北に少し歩き新地蔵川を越えればすぐに二子山公園です。川の中を見ると結構大きな石があったので川に降りたところ、小さな虎石を発見しました。持ち帰りましたが水盤に据えて見るほどのものではないのでアップしません。

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二子山古墳の案内板と背後の古墳。

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目子媛をイメージしているようです。

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公園から古墳を見るとこんな感じ。

さて、古墳を幾ら見てもこれが目子媛のものかどうかは不明です。当たり前のことですが…。そこで、例によって地名に着目して考えてみたいと思います。距離的に短い名鉄小牧線には「味」と付く駅名が三つもあります。味鋺駅と味美駅、味岡駅です。他に面白い駅名で楽田(がくでん)がありました。


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味岡と楽田を示すグーグル地図画像。

以前に別の記事で「あじ」は秦氏に関係があると書いています。理由は以下の通り。

推古天皇20年(612年)に百済人の味摩之(みまし)と言う楽人が来朝し、彼が呉(中国江南)の地で学んだ伎楽や管弦の曲を日本に伝えました。「聖徳太子伝暦」によれば、聖徳太子は秦川勝の子や孫など多くの童子を集めてこれを習得させたそうです。それが日本初の音楽・演劇学校である楽戸(がっこ)の創立に繋がりました。

現在の田原本町大字秦庄にある秦楽寺は今まで何度か取り上げましたが、楽戸秦氏の氏寺だったのです。このため四天王寺の天王寺楽所の楽人も秦氏の末裔とされています。また「皇太子本紀」にも似たような記事があり秦川勝と猿楽の関係が書かれています。従って、秦川勝の子に伎楽を教えた味摩之と秦氏の関係は深いことになり、「あじ」は秦氏と関係しているのです。

などと、秦氏関連の内容を書きましたが、それがどう味鋺や目子媛と関連するのかとの声が聞こえてきそうです。では、「味摩之」の表記を良くご覧ください。味摩は(あじま)と読めませんか?味摩之は(あじまの)と読めそうです。

さて、そこで目子媛を妃とした継体天皇について考えてみます。即位前の継体天皇はWikipediaによれば以下の通りです。

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。


そして、男大迹王(おほどのおう)の住居は現在の味真野(あじまの)神社鎮座地(福井県越前市池泉町21-18)にあったとされます。味真野神社に関しては以下を参照ください。ブログの管理人である玄松子様はいつもながら実に見事に纏めておられます。
http://www.genbu.net/data/etizen/ajimano_title.htm

目子媛は継体天皇が即位するまでの妃でした。彼女が妃である間、味真野にいたとしたら…、そう、尾張に戻った彼女は味真野の地名を持ち込み、自分の出身地を味鋺と名付けた、味真野が美しい場所だったから味鋺の北の地を味美と名付けた、さらに北には丘もあったから味岡と名付けた、と想像できませんか?そんな筋立てで二子山古墳の被葬者が目子媛であると確定できれば、これと極めて類似した断夫山の被葬者が尾張連草香である可能性は格段に高くなります。

でも、これで目出度し目出度しとはなりません。ちょっと考えれば大きな矛盾に突き当たるからです。味摩之の来朝は612年。継体天皇の即位は507年。両者の間には100年以上も開きがあり、味摩之は継体天皇の後の人物となります…。

困りましたね。味摩之の表記が味真野に転じて音が変わり(あじまの)になったと解釈できなくなりました。尾張氏関連は常に時代的なギャップに悩まされます。

しかし、秦氏を介在させない視点で、目子媛が継体天皇と共に居住した味真野の地名を取り味鋺とした可能性はなおも残っています。と言うか、そう考えるしか他にありません。ちなみに、鋺(まがり)は水や食物を入れる器。椀や柄杓(ひしゃく)の類を意味します。金偏からすると、金属製を意味するのでしょう。

ただ、味鋺の地名は味摩之との関連も捨てきれません。伎楽学校の楽戸に対応しそうな楽田の地名に何らかの関連性を感じるからです。例えば岐阜県大垣市にも同じ楽田の地名があり、Wikipediaには以下のように記載されています。

「楽田」という地名が登場する最古の記録は、鎌倉期の東大寺文書だと言われており、その中で「楽田郷って、東大寺の法要のときに楽奏する費用を受け持つ村やろ」「そうや、それでここは大井荘の出郷やったわ」「きっと平安のころから、ここは楽田郷やったろうな」と記されており、この場所が「美濃国大井荘内楽田郷」として知られ、東大寺の楽奏を支えたとされている。


いかがでしょう?このWikiの記事は「要出典」となっているので、正確性は何とも言えません。でも、楽田の地名は秦氏と関連していそうに思えませんか?しかも、楽田の近くには上舞台、下舞台と言った地名もあり、いかにも伎楽などの芸能と関連しそうに思えます。

Wikiによれば愛知県における「楽田」の地名は、大縣神社の神田で「額田」と呼ばれたことから来ているという説がある。とのこと。しかし、額田は一般的にぬかるんだ田を意味し「ぬかた」と読むはずです…。

大井荘も過去に何度か書いたように秦氏と関連しそうです。大井荘は、奈良時代から室町時代にかけて東大寺領であった荘園で、天平勝宝8年(756年)に聖武天皇が東大寺に施入したとされます。東大寺の大仏建立には秦氏が関与していますし、伎楽も秦氏が深く関与しているのです。さてはて…。

秦氏との関連を優先すれば、埋められない時代的ギャップがある。それがないとの前提で考えた場合、楽田はどう判断すればいいのでしょう?本当に尾張氏は難しいですね。この辺で終わり(尾張)にしたい気分ですが、しつこく続けることとします。

次回で、今回書いた内容がひっくり返る予感に怯えつつ…。

                 熱田神宮の謎を解く その17に続く
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酔石亭主

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