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熱田神宮の謎を解く その32

 
今回は再度高倉下(たかくらじ)について検討してみます。天香語山命の調査では一定の成果があったものの、高倉下にどう繋がるかまでは見通せていないので、改めてこの神の実像に迫る必要があるのです。でも、どう迫ればいいのでしょう?

犯罪捜査でもそうですが、行き詰ったときは現場に戻れとよく言われます。歴史探索も同じことなので、原点となる高座結御子神社にもう一度行ってみましょう。高座結御子神社に関しては、「熱田神宮の謎を解く その23 高座結御子神社」を参照ください。

高座結御子神社のどこかにヒントが転がっていないでしょうか?例えば、この神社の周辺には古墳が密集しており高蔵古墳群(高蔵遺跡)と呼ばれています。Wikiによれば、「2007年(平成19年)までの100年で約70回の調査が行われ、弥生時代から古墳時代〜鎌倉時代までの遺構・遺物を確認している」とのことで詳細な研究がなされています。

さらに、弥生時代の出土品の中には遠賀川式土器やキ龍文鏡が含まれています。遠賀川式土器は九州遠賀川流域から西日本一帯に分布する土器で、濃尾平野最古の鏡であるキ龍文鏡は出土数が極めて少ない貴重なものと言えます。それらが高蔵遺跡から出土した背後には、強力な一族の存在が垣間見そうに思えます。キ龍文鏡に関しては以下を参照ください。

http://www.city.itoshima.lg.jp/site/bunkazai/hirabaru-syutudohin.html

http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm

「その23」で酔石亭主は、高倉下は物部氏ではないかと書いています。名古屋市千種区の高牟神社は物部氏の神社であり、熱田台地もかつては物部氏がいたとの説があるからです。それだけではありません。高蔵遺跡からは弥生前期の遠賀川式土器が出土しており、遺跡の集積や出土品の状況から、古墳時代に至るまで連続性を持った集団の住居が存在していたと推定されています。

神社が鎮座するずっと以前の状況から何が見えてくるでしょうか?ここでは、遠賀川の名前に目を向けたいと思います。遠賀川流域は物部氏の原郷ともされる地です。遠賀川の物部氏と遠賀川式土器。両者に関連性があるとして、遠賀川式土器を製作した集団が物部氏の遠い祖先であれば取っ掛かりが出てきそうですが…。

と言うことで尾張における遠賀川式土器を見ると、一宮市を中心に各地で出土しており、この土器が高蔵遺跡で出土した点だけから物部氏の関連を確定することは残念ながらできません。

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遠賀川式土器。

愛知県知多市の細見遺跡にて出土したもの。出土場所は名鉄朝倉駅近く。紀元前300年頃のものと推定されています。知多半島全体では6カ所から出土しています。

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説明文。知多市歴史民俗博物館にて撮影。

ただ逆に、高倉下が物部氏であるとの仮定から出発した場合、遠賀川流域が俄然注目されます。なぜなら、上記のように遠賀川流域は物部氏の原郷だからです。高倉下の出自を探すヒントは遠賀川にある。その前提でさらに調べてみましょう。


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遠賀川を示すグーグル地図画像。

高倉下の出自が遠賀川の物部氏であるとすれば、彼らの祖先が弥生時代の前期に九州から熱田台地に至ったのでしょうか?もしそうなら、どのようなルートを辿ったのでしょう?これも高倉下を祀る神社から推定してみたいと思います。

まず愛知県において高倉下は高座結御子神社や尾張戸神社、尾張の地名由来の可能性がある尾張神社(小牧市大字小針に鎮座)など尾張氏関連の主要な神社を含む7社に祀られています。高倉下が尾張氏かどうかは別として、尾張が彼を祀る中心地の一つであることは間違いありません。

大和(奈良県)は天香山命が7社で高倉下が3社程度のようで天香山命が優勢です。大和には聖なる山・天香久山があり、物部氏としての天香語山命がニギハヤヒ率いる物部氏本隊とともに河内から大和に入ったと考えればそれも当然ですね。(注:ニギハヤヒは天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に大和の鳥見白庭山に進出したとされる)

一方、和歌山県においては高倉下を祀る神社の数が圧倒的に多く15社もあり、紀伊名草に2社、紀伊牟婁に12社鎮座しています。これは「古事記」の神武天皇の条に高倉下が出てくることからも、当然と理解されます。「古事記」に書かれた概要は以下の通り。

大和に向かおうとする神武天皇の軍勢が名草邑に至り、次に熊野の荒坂津に至って丹敷戸畔を殺したところこの神の毒気に当たり、全軍が惑乱状態になる。この場面で熊野の高倉下が登場。天照大神の命により武甕雷神が剣を彼の倉に置いたので、それを取り天皇に献上したところ軍勢は正気に戻った。剣は布都御魂(別名あり)と言い物部氏が奉斎する石上神宮に鎮座している。 この辺の経緯は以下Wikipediaより引用します。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

以上、「古事記」に記載された伝説と紀伊における高倉下の神社鎮座地は、ほぼ一致しているように思われます。また剣が石上神宮に鎮座していることも高倉下が物部系と考えられる傍証となります。

四国の香川県では天香山命を祀る神社が4社ほどあるようですが、高倉下を祀る神社はありません。

九州はちょっと厄介です。福岡県において5、6社あると思われますが祭神名は異なっています。例えば、筑前鞍手 の剣神社(鎮座地:直方市下新入2565)における古い時代の祭神は倉師(くらじ)大明神で、鞍手郡という郡名の発祥地ともされています。詳しくは次回で書きますが、この神は高倉下(たかくらじ)と符合していると思われます。祀られている神社名が剣神社であるのも、熊野で剣を神武天皇に献上した高倉下の伝説と符合しています。


大きな地図で見る
剣神社鎮座位置を示すグーグル地図画像。

由緒詳細は剣神社ホームページを参照ください。
http://www.tsurugijinja.jp/0949(22)2682?pScpage02

筑前遠賀には高倉下を祀る神社が3社あります。但し名前は異なり、大倉主神となっています。遠賀郡岡垣町では高倉神社に大倉主神として祀られていることから、高倉下=大倉主神と見て間違いなさそうです。

高倉神社の詳細はこちらのホームページを参照ください。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/fukuoka/ongagun/takakura/takakura.html

以上、北九州から四国、熊野、尾張と高倉下を祀る神社を見てきました。何となく連続性が感じられませんか?高蔵遺跡で遠賀川式土器が出土している事実と、物部氏の原郷である遠賀川流域にはやはり関連性がありそうに思え、それが高倉下の出自と繋がって来そうです。次回は今回の結果を元に物部氏の移動ルートをより詳しく探ります。

              熱田神宮の謎を解く その33に続く
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