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熱田神宮の謎を解く その35

熱田神宮の謎を解く
03 /16 2013

前回の鞍手町ホームページを参照ください。古物神社という名前の神社(鎮座地:鞍手郡鞍手町大字古門1237)が記載されています。きっとこれも凄い由緒を持っているのではと推測されるので、調べてみましょう。


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古物神社の鎮座位置を示すグーグル地図画像。

あれこれ調べた結果、驚天動地の内容が判明しました。まず祭神は以下の通りです。

天照大神、日本武尊、スサノオ、仲哀天皇、神功皇后、宮簀媛神、応神天皇、石上布留御魂神、剱大明神、草薙剱霊命、稲種尊

よくもずらりと並んだものですが、この中には尾張氏ゆかりの宮簀媛、建稲種命、草薙神剣が含まれ、天照大神、スサノオ、日本武尊は草薙神剣に深く関係してきます。これではまるで、尾張氏の神社であり熱田神宮と同じではないかと思えてしまいます。ただ、石上布留御魂神は石上神宮(物部氏が奉斎する)にある十種の神宝です。

剣岳の西麓には前回で書いたように熱田神社が鎮座しています。やはり鞍手は尾張のコピーなのでしょうか?あるいは鞍手のコピーが尾張なのでしょうか?頭の中がごちゃごちゃになりそうですが、こうなったら、鞍手周辺の神社の由緒を片っ端からチェックするしかありません。と言うことで、まず次に古物神社の由緒を調べます。すると…、驚天動地の内容が出てきました。詳しくは以下の通り。

「剱神社縁起」(以前は剱神社と八幡宮があり、明治になって合祀され村の名前を取って古物神社となった)によれば、天智天皇の御世に、僧道行が熱田神宮の神剣(草薙剱)を盗み、新羅に向かおうとしたが、神剣たちまち包を破り中空に舞い上がり遠く古門字大久保の地に落ちた。山中に光り輝く神剣に驚き、ムラ人は小祠に納め祀った。(注:祭神の神功皇后と応神天皇は八幡宮で祀られていたと思われる)

僧道行が熱田神宮の神剣(草薙神剣)を盗み、新羅に向かおうとした云々は本ブログでも既に書いていますが、まさか神剣がこんな所に飛んできたとは尾張側で調べても全く出てきません。「日本書記」では新羅に逃げる途中嵐に遭って迷い帰って来たとあり、熱田神宮社伝では嵐で果たせず失敗に終わったとあります。

この部分を本ブログに書いたときは何も考えなかったのですが、「嵐に遭って」と言う文面からすれば「海で嵐に遭って」と考えるのが妥当です。そして新羅に逃げるのであれば、当然北九州から船に乗ることになります。

その途中で嵐に遭ったとすれば古物神社の縁起は真実味を帯びてきます。当時遠賀川の流域は海が入り込んで内浦状態になっていたはずです。同時代の尾張も同じようなもので(当然ですが)、熱田台地は海に突き出した象さんの鼻状態でした。(注:熱田神宮の縁起では難波より本国に逃れる途中で嵐に遭ったとされます。その場合でも北九州を経由します)

だとすれば、剣岳の麓まで内浦状態で、古物神社に草薙神剣の伝承があっても何ら不思議ではなく、矛盾もありません。 さらに驚いたのは、既に書いた遠賀郡岡垣町に鎮座する高倉神社にも全く同様の神剣盗難伝承があったことです。高倉神社は、草薙神剣を取り戻して後に作られた剣を合せて八剣を納めたことから、遠い昔には八剣宮とも言ったそうです。

続いて尾張の熱田神宮と同じ社名の熱田神社(鎮座地:鞍手郡鞍手町新北)を見ていきましょう。由緒によれば景行天皇27年(西暦97年)に日本武尊が熊襲征伐の折立ち寄り、地神5代を祭祀したとのこと。地神5代とは天照皇大神、ニニギ、オシホミミ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズです。

その後、文治元年(1185年)に尾張国熱田大明神を勧請して祀ったそうです。その際に日本武尊、スサノオ、宮簀媛が天神として祀られたとのこと。古物神社の祭神である日本武尊、スサノオ、宮簀媛神もこの時点で祀られたのかもしれません。ちょっと気になるのは、熱田神社においては、国津神と天津神が逆転しているように見えることです…。


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熱田神社の位置を示すグーグル地図画像。

熱田神社の詳細は以下のブログを参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamato2863/35067533.html

日本武尊による熊襲征伐は東国征伐よりも先に実施されています。つまり創建伝承としては尾張の熱田神宮より鞍手の熱田神社の方が古いことになります。

しかも、鞍手に鎮座する熱田神社の鎮座地は新北(にぎた)です。「万葉集」中には以下のような額田女王の歌があります

熱田津( にぎたづ))に船乗りせむと月待ては潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

つまり、新北熱田神社は熱田熱田神社だったのです。そして宮司の金川氏の先祖は筑紫国造の鞍橋君(くらじ)でした。明らかに尾張の高座結御子神社の祭神高倉下(たかくらじ)と繋がりがあると理解されます。その意味では、高倉下を祀る高座結御子神社が熱田神宮の摂社であるのは必然と言えるかもしれません。

時代的には鞍手周辺の神社の方が尾張の熱田神宮などよりも古そうです。しかし、鞍手の各神社における祭神・日本武尊、スサノオ、宮簀媛などは、1185年すなわち平安時代末期に尾張から勧請された可能性があります。

いずれにしても、時代の古さからすれば、古物神社と熱田神社だけで尾張の熱田神宮の元宮と言っても良さそうな雰囲気です。今までに書いた「熱田神宮の謎を解く」の根本部分が揺らぎそうな事態となってしまいました。頭を抱えたくなりそうですが、他の神社も見ていきましょう。

剣岳周辺に鎮座する幾つかの剣神社や八剣神社には日本武尊の伝承が残されています。例えば、新延剣神社(鎮座地:鞍手郡鞍手町新延)境内には古墳時代の円墳(5世紀頃)があり、鎧塚古墳と称されていますが、これは日本武尊が熊襲征伐の帰途に鎧を納めたという伝説に由来します。

詳細は以下の鞍手町歴史民俗博物館のホームページを参照ください。
http://kurate-museum.com/index.php?%E9%8E%A7%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

遠賀郡水巻町立屋敷3-13-30に鎮座する八剱神社の由緒によると、この地に立ち寄った日本武尊は砧姫を娶った。尊が東国征伐の帰途、崩御したと聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き「御館大明神」として祀ったのがこの神社の起源とのこと。これは尾張における日本武尊と宮簀媛のストーリーに似通っています。

既に書いたように直方市下新入に鎮座する剣神社の祭神は、古くは倉師(くらじ)大明神とされていました。社伝によると、成務天皇の時代に筑紫国造の田道命が筑紫物部に祀らせたもので、倉師大明神(=高倉下)が物部系であることを示しています。

さて、遠賀川流域と尾張における各神社や伝承が相似形を示し、どちらがどちらをコピーしたのか良くわからなくなりました。あまりにもややこしく頭が痛くなりそうですが、何とか筋道を付ける必要があります。

             熱田神宮の謎を解く その36に続く


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酔石亭主

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