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熱田神宮の謎を解く その36


土岐石展に行った後、一宮市の妙興寺境内隣にある一宮市博物館を訪問しました。展示物の中に参考となるものもあったので、アップします。(注:妙興寺は尾張の巨刹ですが、別の機会に書く予定です)

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一宮の遠賀川式土器。左側の壺は一宮市丹陽町元屋敷遺跡より出土。

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遠賀川式土器の伝播図。

図の解説には海路を辿って東進したとあります。物部氏東進ルートと重なりますね。しかし、遠賀川式土器の東進は紀元前300年頃。一方、ニギハヤヒの東遷は3世紀頃の話と思われるので、この間に500年以上もの時間が経過しており、整理しにくい部分があります。熊野に遠賀川式土器がないのは、水田に適した耕作地が乏しかったからでしょうか?

さて、今回は北九州と尾張の伝承の相似形をどう解きほぐすか難問に挑戦です。正面から当たってもはね返されそうなので、視点を変え日本武尊のお父さんである景行天皇から見ていきます。「古事記」で景行天皇の条を見ると、纏向の日代宮に座して、から始まりやたら沢山の子を産ませ、国造、和気、稲置、縣主を別けたとある程度で、残りのほとんどは倭建命の物語に終始しています。

ところが「日本書記」によると、景行天皇は紀伊国に出向き、次に美濃に行幸して泳宮(くくりのみや)を造営し、ようやく纏向に都(日代宮)を造営します。その後、筑紫に行幸して豊前国の長峡県(ながをのあがた)に行宮を建て、熊襲征伐のため九州を巡行します。行宮のあった場所は京(みやこ)と言われました。場所は現在の福岡県京都郡と想定され地名が今に至るまで連続しています。

さらに風土記逸文豊前国には、宮処(みやこ)の郡に以下記載あります。
「豊前風土記にいう、―宮処(みやこ)の郡。むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天下降った。おそらく天照大神の神京(みやこ)である。云々。」

天照大神の神京とは邪馬台国を意味しているように思われます。つまり景行天皇は邪馬台国の跡地に行宮を建てたことになります。それほど重要な内容が「古事記」には何一つ書かれていないのです。なぜでしょうね?

ひょっとしたら、日本武尊だけでなく景行天皇も複数存在していた。「古事記」の編纂者は、複数存在していた景行天皇の両方を書きたくはなかったので、大和(日本国)における景行天皇の事績のみを記載した。「日本書記」は日本国(大和)と倭国(北九州)における別人の事績も景行天皇に含め記載した。すなわち「古事記」と「日本書記」を読み比べてもわかるように、日本武尊だけでなく景行天皇も一人ではなかったのです。

大和(日本国)と北九州(倭国)のそれぞれに景行天皇に擬せられる人物がいて、北九州においては景行天皇の九州巡行と日本武尊の熊襲征伐がダブっていることから、北九州の景行天皇=日本武尊(倭建命)とも考えられます。日本武尊が「常陸国風土記」では倭武天皇と表記され、大高火上山の石碑に「倭武天皇皇妃 尾張国造之祖 宮簀媛命宅址」と彫られている(内容は、「その10」参照)のも、そうした事情が反映されているのかもしれません。

物部氏をベースとする北九州遠賀川流域と、尾張氏をベースとする尾張国にはそれぞれ別の日本武尊伝承が存在していた。それが「日本書記」では、ほぼ尾張氏関連一本に纏められている。そう理解して背後にある事情を探れば、北九州と尾張の各神社の相似形をなす理由が判明するはずです。

尾張において、初期の物部氏と尾張氏は共存していたと考えられます。よって、物部氏と密接な北九州版日本武尊(倭建命)の熊襲征伐物語が物部氏の手で尾張に伝わりました。一方で尾張氏も東国版日本武尊(建稲種命)の東国征伐ストーリーを持っています。二つのストーリーは元々別物ですが、物部氏の力が蘇我氏との争いで相対的に低下した結果、北九州版日本武尊ストーリーは徐々に尾張氏のものに組み込まれていったのです。

例えば、北九州版日本武尊と砧姫の物語は尾張氏によって部分的に取り込まれ、尾張における宮簀媛の話に換骨奪胎したと推定されます。尾張氏と結び付いてしまった日本武尊伝承は、最終的に「日本書記」において一つに纏められました。

「日本書記」が編纂されたことで、日本武尊と尾張氏である宮簀媛との関係が固定化され、また草薙神剣は熱田神宮に在ることとなりました。北九州と尾張の伝承が「日本書記」により尾張サイドで固められてしまったのです。よって、本家本元かもしれない新北の熱田神社(元は剱神社)は文治元年(1185年)に尾張国熱田大明神を勧請して祀り、伝承を逆輸入せざるを得なくなったのです。

新羅僧・道行の神剣盗難事件も、1185年に尾張国熱田大明神が熱田神社に勧請された際、神剣が古門字大久保の地に落ちたという物語が付加された可能性があります。

草薙神剣の元は天叢雲剣であり、名前からしても物部氏の剣と想定されます。(注:天叢雲剣の元は出雲の剣と想定される。詳細は次回で書きます)そうした過去を知っていた物部氏の北九州における残党が、日本武尊と草薙神剣の伝説は本来自分たちのもので自分たちのストーリーなんだと密かに主張したのがこの話なのかもしれません。そう思うと、ちょっと悲しいですね。

北九州遠賀川流域と尾張の神社・伝承が相似形である理由は以上でほぼ解明できたと思います。ただ、本来必要な現地訪問、現地図書館などにおける郷土史の調査、地元の方からお話を伺うなどの基本事項ができていません。よって、内容的には行き届かない面が多々ありそうですし、誤りがある可能性も否定できないのです。将来可能であれば、この面白い場所を是非訪問し、詳しく記事にしてみたいと思います。

               熱田神宮の謎を解く その37に続く
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