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熱田神宮の謎を解く その37


前回までの検討結果、物部氏の原郷とされる遠賀川流域と尾張氏の本貫地である尾張国の神社・伝承が相似形である理由、高倉下は物部氏の一族であることがほぼ明らかになりました。結局この相似形は尾張氏と物部氏の相似とも言えそうです。なぜなら、尾張氏の祖である天火明命と物部氏の祖である二ギハヤヒが同神とされているからです。

そのためか、草薙神剣に限らず剣に関する伝承がややこしいものになっています。そもそも剣に関連する伝承のほとんどは物部氏のものであろうと思えます。その物部氏の剣も、記紀の記述からすれば、どうやら出雲から奪ったあるいは譲り受けたもののように見受けられます。

例えば「日本書記」崇神天皇の条には、出雲の神宝を召し上げるために物部氏系の武諸隅(たけもろすみ)が派遣されたとあります。垂仁天皇の条には物部十千根(もののべのとちね)が出雲の神宝の検校を命じられています。剣に関する具体例を挙げれば以下の通りです。

物部氏が奉斎する石上神宮に祀られている剣は布都御霊大神(ふつのみたま)、布留御魂大神(ふるのみたま)、布都斯魂大神(ふつしのみたま)です。国譲り神話において、タケミカヅチらが大国主を脅した剣は、高倉下が神武天皇に献上した剣すなわち布都御魂(佐士布都神、甕布都神の別名あり)であり、出雲が関連します。

布留御魂は、物部氏の祖であるウマシマジが布都御霊とともに祀った十種神宝を意味します。十種神宝とはニギハヤヒが高天原から天降ったとき、天津御祖から授かった十種の神宝で、八握剣が含まれます。出雲に天降ったスサノオが八岐大蛇を退治するために使ったのは十拳剣で、これが布都斯魂に当たります。かなりややこしいですね。

次に、スサノオが八岐大蛇を退治した際、尾から出て来たのが草薙神剣でした。尾張における草薙神剣は尾張氏が祀る剣ですが、この剣の本来の名前は天叢雲剣となります。そして、ニギハヤヒの子が天香語山命で、その子は天村雲命でした。

よって天叢雲剣も物部氏の剣であったように思えますし、そう考えた方がすっきりします。名古屋市昭和区には村雲町があり天叢雲剣が祀られていたと想像できますが、物部系である高倉下を祀る高座結御子神社の北東に位置してさほど遠くはありません。さらに、尾張における物部氏の存在は今までに何度か書いています。


大きな地図で見る
村雲町の位置を示すグーグル地図画像。

村雲町のお隣の御器所(ごきそ)には御器所八幡宮という神社が鎮座しており、神社の葱(禰宜)さんが実にうんちくある話を数多く書いています。同社ホームページは以下ですのでご参照ください。
http://www.gokiso.info/negi.php

さてそこで、御器所の地名は埴輪や神事に使う土器を作っていた土師氏に由来しているとされ、土師氏は出雲国の出身です。土師氏に関しては以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E6%B0%8F

村雲町に天叢雲剣が祀られ、そのお隣の御器所が出雲族の地だとすれば、天叢雲剣は本来出雲の剣であったと言えそうです。また、荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣は2世紀後半頃に出雲国内で作られたとされますが、赤土で埋めて周囲を火で燃やしています。「玉籤集」の裏書によれば、熱田神宮の神官は草薙神剣を見ており、二重に赤土で包まれていたそうです。

「玉籤集(ぎょくせんしゅう)」は京都梅宮大社の神職玉木正英が享保10年(1725年)頃に書いたものとされます。関連する内容を一部抜粋します。

御璽は長五尺許の木の御箱也、其内に石の御箱あり、箱と箱との間を赤土にて能つめたり、石の御箱の内に、樟木の丸木を、箱の如く、内をくりて、内に黄金を延敷、其上に御神體御鎮座也、石の御箱と、樟木の箱との間も赤土にてつめたり

この類似性からも草薙神剣(=天叢雲剣)は出雲由来のものと思われ、それが物部氏の手に渡ったと推定されます。

以上、北九州で日本武尊と剣に関連するのは物部氏で、尾張では尾張氏に見えましたが、尾張においても尾張氏の背後に物部氏の存在があったのです。何しろ本ブログでは、尾張氏とされている断夫山古墳の被葬者も物部氏ではないかと疑っているくらいですから…。そして物部氏の背後には出雲族の存在があったのです。

全ての神剣は本来出雲のものであり、それを物部氏が奪い(あるいは譲り受け)、朝廷に献上するか尾張氏に奪われた(あるいは譲った)ので混乱を招く結果になったのが実情ではないかと思われます。

そうした観点を入れた上で、新羅僧・道行による神剣盗難事件を再度推理してみましょう。道行が神剣を盗み新羅に持ち込もうとしたのは天智7年(668年)とされています。その5年前の663年、日本は唐、新羅の連合軍に「白村江の戦い」で完敗。翌年以降、本土防衛のため水城・山城の建設を急ピッチで押し進めていました。

このような時期に、国の宝である神剣を新羅に持ち去ろうとしていた道行が罪を許されて知多市に当時の巨大寺院である法海寺を建立するなど絶対にあり得ません。しかも法海寺の縁起によれば、寺の創建は天智7年(668年)。道行が剣を盗んだとされる同じ年なのです。よって、道行の話は取ってつけたものに過ぎないと理解されます。

想定されるのは、草薙神剣の本来の所有者である物部氏、それを皇室の三種の神器としたい天皇家、神剣が様々な伝承に基づき熱田神宮に現存している尾張氏の間で議論が持ち上がっていたと言うことです。3者が自分を主張していれば話は決着しません。背後に唐の脅威が迫る中、ある種の折衷案が示されたのだと思われます。

それが、神剣を一度物部氏の許に預け、次に宮中に置き、最後の熱田神宮に戻すと言う案でした。神剣と言っても、それは神が依り来るための依代でしかありません。一旦神剣が手許に戻れば、剣の霊威はその地に留められます。

剣自体が必要なら別の剣を作って新たな依代とすればいいだけです。今年は伊勢神宮の式年遷宮の年に当たります。神社の建物自体も神が依り来るための依代であり、建物は更新されていきます。そして、別の剣を新たに作ることで創建されたのが、各地に鎮座する八剣神社でした。

上記の考え方をベースにして、北九州の物部氏及び宮中にしばし留め置かれた神剣は、最終的に熱田の尾張氏の手に戻されたのです。

しかし事の真相を明かすわけにはいかないので、敵対する新羅の僧・道行が盗んで新羅に持ち帰ろうとしたとの話を捏造したのでしょう。新羅が悪いことにしておけば、一石二鳥だと考えたのかもしれません。

蘇我氏に滅ぼされた物部氏が、当時どれだけ力があったのかと言う問題はなおも残ります。しかしです。草薙神剣が熱田神宮に返還されたのは朱鳥元年(686年)。一方、天武天皇12年(683年)9月2日に、物部首は姓を連に改め、天武天皇13年(684年)11月1日には、物部連は朝臣の姓を与えられています。朝臣に関しては以下Wikipediaより引用します。

朝臣(あそみ、あそん)は、684年(天武13年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。


つまり、物部本家は滅亡したものの、物部氏全体が滅んだわけではなく一定の力を有していたと理解されます。(注:この時点では物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得ています)よって、神剣盗難事件は物部氏、天皇家、尾張氏三者による創作だったのです。

物部氏の原郷である遠賀川流域に一時神剣があったとする伝承から想定されるストーリーは以上です。

              熱田神宮の謎を解く その38に続く
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