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熱田神宮の謎を解く その38


高座結御子神社の高倉下を検討する中で、思わぬ方向へと進み、記事の回数が予想外に多くなってしまいました。ところで前回、剣に関連する伝承のほとんどは物部氏のものであろうと思われ、その物部氏の剣もどうやら出雲から奪ったあるいは譲り受けたもののように見受けられる、と言った趣旨で記事を書いています。

記紀の伝説における剣が本来出雲のものであることは、1984年から1985年の出雲市斐川町神庭荒神谷の調査において銅剣が全部で358本も出土したことからも推定されます。 では、神剣ストーリーの元となった出雲とはどんな場所なのでしょう?今まで何冊か古代出雲に関連する本を読んでみたのですが、出雲のイメージがきちんと像を結びません。それほどこの地域の古代の姿を知るのは難しいと思われます。

例えば、記紀の出雲神話から想定される出雲像と「出雲国風土記」に書かれた出雲像は大きく異なります。現在の出雲大社を祭祀する出雲臣族は天孫である天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫とされています。一方祀られる側の大己貴命は出雲神族(あるいは出雲竜蛇族)とも言われていますが、両者の関係はどうだったのかもはっきりしません。

さらに、出雲の支配地域は一体どこまで拡がっていたのでしょう?伝説からすれば北九州から新潟までの広い地域が出雲族の支配下にあったように見えますし、大和三輪山の神である大物主神は蛇神であることから出雲系の神と思えてしまいます。大物主神が出雲系だとしたら、その版図は畿内地方にまで及んでいたのでしょうか?

そうした前提が正しいとすれば、古代出雲は日本の最初の支配者であり、大帝国を築いていたとも言えそうです。よって出雲王朝とか出雲帝国とか言った呼び名さえ出てくるのです。(注:出雲は畿内において政治的・軍事的支配権を持ってはいなかったように思えます。ただ、伊勢神宮における御師のような集団が畿内にいて、この地は出雲の信仰圏に入っていたのではないでしょうか?)

国譲り伝説はその出雲王朝が天孫系に乗っ取られた経緯を神話で語っているようにも思えます。しかしです。今までの検討から、出雲の剣は物部氏に奪われたか譲られたと理解されます。加えて、天孫降臨の前にニギハヤヒ率いる物部氏の東遷がありました。だから、初代天皇の神武も畿内に入るには出雲系・物部系と話を付けなければならず、とんでもない苦労を強いられているのです。

大和朝廷のある畿内に的を絞った場合、紀元前300年頃既に物部氏の遠祖と想定される集団が海路遠賀川流域から畿内に入ります。当初はそこに出雲族(出雲竜蛇族)の御師集団がいて、両者は共存していたのでしょう。それは、尾張において初期の物部氏と尾張氏が共存していたのと同じです。美濃国東部を支配したのは三野後国造(みののみちのしりのくにのみやつこ)ですが、「国造本紀」によると、物部連の先祖である出雲大臣命の孫の臣賀夫良命が成務期に三野後国造に任じられています。このことは出雲族と物部氏の関係を物語っているようにも思えます。

共存関係は500年以上も長く続きますが、3世紀になり軍事力を高めたニギハヤヒの物部系集団が畿内に入ります。これにより、出雲族は後退を余儀なくされ、多分京都の北部すなわち後に秦氏が拠点としたエリアから亀岡市まで下がったものと思われます。三輪山の祭神である大物主神(出雲族の大己貴神)は蛇神でしたが、ニギハヤヒの神格が入り男神アマテラスの要素を持つことになりました。

出雲族後退の痕跡は現在も京都市に残っています。北区南東部(賀茂川の西岸で鞍馬口通を挟む南北の地域)には出雲路の地名があり、出雲族が居住し出雲井於神社が鎮座していました。出雲井於神社の詳細は以下のホームページを参照ください。
http://www.geocities.jp/engishiki01/yamashiro/html/020302-01.html

秦氏は5世紀頃京都に入植した後、亀岡に進出します。当時は丹波国桑田郡と呼ばれましたが、桑田の地名は養蚕を得意とする秦氏が桑田を作ったことに由来します。この地(亀山盆地)がかつて湿地(大湖)であった頃、土地を改良し開拓したのは大己貴命とされ、当地には元出雲と称される丹波国一之宮の出雲大神宮が鎮座(鎮座地:京都府亀岡市千歳町出雲無番地)しています。


大きな地図で見る
出雲大神宮を示すグーグル地図画像。

出雲大神宮ホームページは以下を参照。
http://www.izumo-d.org/

出雲族と秦氏は共同で養蚕に従事したのかもしれません。それが元になり、出雲族がさらに後退して出雲大社に押し込められた際、秦氏の一部が同行し、結果出雲地方に秦姓が多くなったものとも推測されます。また京都府亀岡市旭町には松尾神社が鎮座しており、社伝によると、秦川勝が聖徳太子の命により祀ったとのことです。

京都市西京区に鎮座する松尾大社が秦氏の神社なのでそれも当然かと思いますが、松尾神社はそもそも出雲族の神社であったと推測されます。島根県出雲市小境町に鎮座する佐香神社(さかじんじゃ)の別名は松尾神社であり、酒造の神として酒造業者からの信仰を集めています。よって松尾大社は、佐香神社すなわち松尾神社が京都市西京区の松尾山においても出雲族の手で祀られていたものを、秦氏が取り込んだと思われるのです。松尾大社に関しては以下Wikipediaより引用します。

当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。
大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになった。

話が少しそれました。初期の大和においては出雲族系御師集団と物部氏が共存していたものの、ヒギハヤヒ率いる物部軍団の降臨により出雲族は京都北部へと後退。その後、天皇家の祖先となる天孫系が大和に入り、出雲族の神宝を奪ったのではないでしょうか?

こうした出雲族、物部氏、天孫系の3者の係わり合いを解くことで日本古代史の実像が見えてきそうです。ただ、この問題を追及していると「熱田神宮の謎を解く」と言う記事タイトルからはあまりにもかけ離れてしまいます。本件は別の機会にじっくり腰を据えて考えることにして、次回からはまた同じ記事タイトルで別のテーマを追求します。

                熱田神宮の謎を解く その39に続く
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