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無量寿寺かきつばた園 その2


無量寿寺かきつばた園を続けます。

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別のカキツバタ池です。

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もう一枚。

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さらに一枚。

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小さな墓石が仲良く並んでいます。誰のものか解説板を見ることに…。

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解説板。八橋の地名由来譚が書かれていました。

これを読んで驚いた点が二つあります。まず、羽田玄喜の名前です。これはひょっとしたら秦氏ではないでしょうか?秦氏が関係する名前があるから京の銘菓は八橋の名前を取っているのかもしれません。八橋、八幡と並列すると、さも関係がありそうに思えてきます。

「八ツ橋」を製造しているお店は何軒かあるので、他の店についても創業の由来を調べてみました。老舗「本家西尾八ツ橋」の創業者は、三河八橋の地名由来に心を打たれ、この話を広く京の人々に知らしめようとして橋の形に似せた煎餅を作ったそうです。こちらの由来譚は明らかに三河八橋の地名が元になっています。

聖護院八ツ橋総本店の由来にも三河八橋を想わせる内容が明確に含まれていることからして、京銘菓「八ツ橋」は三河八橋に由来すると考えて良さそうな気配です。秦氏は京都が本拠である点からしてもそう言えそうです。(ちょっと無理がある…??)

もう一点驚いたのは、妻は入江浦でコンブなどとっていた、と書かれていることです。寺の近くを流れる川は逢妻男川で、その北を流れる逢妻女川と合流し、逢妻川となって知多半島の東の付け根部分から三河湾に注ぎます。


大きな地図で見る
逢妻男川と逢妻女川を示すグーグル地図画像。なかなか趣のある川の名前です。

もしこの辺りまで海が入り込んでいたなら、それを示す地名が「熱田神宮の謎を解く」シリーズで書いた笠寺周辺地域(松炬島)のように、必ず存在するはずです。ところが、そうした地名は八橋周辺に一切存在していません。またかきつばた園の標高は9.9mあり、平安時代に昆布が採れる入江であったとは思えません。

もちろん、八橋の地名由来は在原業平以前のものなので、奈良時代かそれ以前の話と考えられますが、どうしたものでしょう。悩んでいても始まらないのであれこれ調べてみます。

まず、知立市まで海が入り込んでいた時代はいつか考える必要があります。想定されるのは縄文海進のあった縄文時代前期で、今からおよそ6000年前に遡ります。海から離れている安城市には堀内貝塚という縄文時代の遺跡が存在していることから、知立市にも海が入り込んでいた可能性がありそうです。

ただ貝塚の分布をみると、逢妻川流域では刈谷市一ッ木町上カス貝塚、豊田市駒場南の駒場貝塚、逢妻川の南に位置する猿渡川流域では中条貝塚までが限界で、それより上流に位置する知立市八橋周辺には貝塚がない、つまり海からは遠くに位置していると考えざるを得ません。

いずれにしても、解説板には羽田玄喜の時代がいつか書かれていないので調べる必要があります。江戸時代に書かれた「八橋略縁記 杜若由来」によれば、解説板の話は承和年間(834年から847年)のころ、とされています。

在原業平の生没年が825年~880年なので、業平の東下り(東下りが本当かどうかも不明ですが)のほんの少し前に成立した話と理解されます。縄文時代でも知立市の八橋まで海が入り込んでいないとしたら、解説板にある「入江浦でコンブ云々」は平安時代における単なる説話か、或いは三河八橋における話ではないことになります。

一方、豊田市中心部の旧称は挙母(ころも)ですが、この地名は「古事記」の垂仁天皇の条に落別王(おちわけのみこと)が三川の衣の君の祖とあることに由来します。「碧海の歴史 シリーズ愛知 1」によれば、落別王は挙母の地に臨み、付近一帯を領し、この海岸一帯を許呂母の浦といい、転じて衣ヶ浦となったといわれる、とあります。これは衣浦の地名由来譚ですが、挙母の目の前に浦があったかのように記載されています。だとすれば、知立市に海が入り込んでいてもおかしくない…??

豊田市の北に位置する猿投山は、景行天皇が伊勢湾に猿を投げた伝承が元になっています。ところが三河には、縄文時代に海が入り込んでいた猿渡川があります。伊勢湾も三河湾もどちらも古代天皇の時代に海が大きく入り込んでいたのでしょうか?尾張と三河の伝承に相似性があるのは面白いと思います。

別の史料も見ていきます。「知立市史」によると、「三河吟福」(江戸末期の書)には、「都て此辺 昔は入江なるよし」と書かれているとのことです。(注:都ては、すべてと読みます)これは多分、作者が「八橋略縁記 杜若由来」の記事を参照したのでしょう。よって「三河吟福」の記述は事実を反映したものではなさそうです。

以上の検討結果から、解説板にある三河八橋の地名由来はかなり怪しいと結論せざるを得ません。在原業平の東下りが「伊勢物語」と言う小説における創作に過ぎず、八橋の地名由来も実話ではないとしたら、銘菓である京八ッ橋やかきつばた園の存在までが霞んできそうな気がします。

いや、多くの人が長い時代を通じてある見方を正しいと信じたら、その積み重ねにより、ある見方が本当の歴史として扱われる結果となるのでしょう。歴史は史実そのものではなく、後世の人の手によって作られる、ですね。
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