東三河の秦氏 その17 徐福伝承の謎


一般の方が東三河の徐福伝承を知るには、菟足神社解説板の内容だけでほぼ十分と思えます。なので、くどいようですが再度ここに掲載します。

菟足神社と徐福伝説
今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。
ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
一 熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
豊橋市日色野町には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。
牛窪記〔元禄十年(1697)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
二 菟足神社の創設者は「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年12/22昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。
三 菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。


解説板の内容を纏めると、『徐福の子孫は秦氏を名乗った。秦氏は菟足神社の創設者と思われる。神社においては中国的な生贄神事が行われている。日色野町には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。三河と熊野は海路の交流があり熊野信仰の修験者が徐福伝承を伝えた可能性もある』となります。また東三河に渡来したのは、既に書いたように徐福本人ではなく、孫の古座侍郎となっています。

解説板も徐福伝承の流れを一定程度切り分けしています。ただ、これで十分とは言えないので、より深い分析が必要となります。

徐福伝承は秦氏が持ち運んだと言うのが酔石亭主の現時点における考え方ですから、秦氏と徐福伝承が東三河においてペアになって存在しているのは当然と言えるでしょう。また熊野にも秦氏の痕跡があるので、彼らが熊野から東三河に来た点も多分事実と思われます。

熊野信仰は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて伝播したとされています。それは例えば、以下のような佐脇神社(鎮座地:豊川市御津町下佐脇宮本81番地)の由緒からも見て取れます。

大宝二年(702)持統天皇三河に御行の際、この地を都と名づけ御所川の水を奉る。字天神という所に「国帳」に記載の正五位下、下佐脇天神を奉斎していたが平安朝の末期に紀州熊野本宮の人、熊野三神を戴いてこの地に移注し、後にこの二社を合併合祀し、熊野権現と称した。…以下略

一方、秦石勝は秦川勝の子であり葛野系秦氏ですから、徐福伝承を担ってはいないと思われます。だとしても、菟足神社創建の白鳳15年は7世紀の後半なので、熊野信仰よりずっと早い段階で秦氏は東三河の地に入っていると確認されます。そして、熊野から東三河に海路入植した秦氏は、全くの想像ですが白鳳15年よりもっと以前に東三河の地に足を踏み入れたと考えられるのです。

解説板よりもう少し詳しく知りたいと思った場合、大口喜六氏の「国史上より観たる豊橋地方」、山本紀綱氏の「日本に生きる徐福の伝承」、前田豊氏の「消された古代東ヤマト 蓬莱の国東三河と徐福」などがあります。ネット上にももちろん各種情報があります。ただ残念なことに、いずれも十分な分析がなされておらず、あまり参考にはなりません。各書籍について酔石亭主は、図書館でざっと斜め読みして棚に戻しています。

参考になったのは、医師である大島信雄先生が「豊川医報」79号、81号、82号に掲載された「愛知県宝飯地方の徐福伝承」です。これは図書館にもなく目にするのは非常に困難ですが、酔石亭主は何とかコピーを入手しています。大島先生は元禄10年(1679年)頃書かれたと推定される「牛窪記」を、徐福と当地の関わりを記した最も早い時期のものとしており、徐福伝承に関連した部分を抜き出して掲載しています。

続いて、「牛窪記」の後に続く各史料を挙げ同じように徐福伝承関連部分を掲載しています。史料としては「牛窪密談記」、「宮嶋伝記」、「三河国聞記」、この三つを纏めた「牛久保長山記」。さらに「参河志」、「参河名所図絵」、「三河国宝飯郡誌」など、時代を下りながら多数の史料を挙げておられます。

お蔭で個別史料を探すことなく徐福伝承の推移が一目でわかり、とても参考になりました。これら地元史料はいずれも「牛窪記」が元になっていると考えられ、基本的には「牛窪記」と大島先生の「愛知県宝飯地方の徐福伝承」を手許に置けばほぼ必要な情報は得られていることになりそうです。

不思議でならないは、日本全体で見ても、「富士古文献、宮下文書」を除き、徐福伝承について比較的詳しく書かれた文書は「牛窪記」以外ないはずなのに、この分析や検討がほとんどなされていない点です。大島先生も前文で、なぜか徐福関係のことが地元で無視され続けたが、根拠のないように見える単なる民間伝承でも、それなりに意義があるので、その持つ意味を正当に評価すべきとの主旨を書かれています。

まあ酔石亭主としては、「牛窪記」の詳細分析がなされていなかったから取り上げる意味があることになります。

前口上ばかりが長くなりました。次回からいよいよ「牛窪記」本文の検討に入ります。

             東三河の秦氏 その18 徐福伝承の謎に続く
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