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東三河の秦氏 その2


今回は東三河の中心となる豊川市と豊橋市の位置関係を確認することから始めます。


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豊川市と豊橋市を示すグーグル地図画像。

うんと大ざっぱに見れば豊川、豊川放水路を挟んで北西側が豊川市(但し日色野町は豊橋市)、南東側が豊橋市と言う構成となっており、そのいずれにも秦姓が多い結果となっています。これにも何らかの意味がありそうです。また豊川市は旧宝飯郡に属し、豊橋市の大半は旧渥美郡に属しています。

中世から江戸時代にかけて豊橋市の中心部は吉田と呼ばれ、豊川と朝倉川の合流地点に当たっていました。伊勢神宮の神領の一覧表である「神鳳鈔」には、吉田御園の記載があり伊勢との関係も深い土地です。なぜ伊勢と関係が深いのかも、これから探索する謎と関わっていそうに思えます。

豊川市の豊川は、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷に由来しています。宝飯郡に関してWikipediaには、「7世紀後半に、三川国穂評(ほのこほり)、8世紀の律令制以降は、寶飫(ほお)郡である。さらに、寶飯(ほい)郡と誤記され、現在の宝飯郡に至る」と記載されていました。

また「古事記」の第9代開化天皇の条には「次に朝廷別王。四柱 この朝廷別王は、三川の穂別の祖」と記載あります。朝廷別王は第9代開化天皇のひ孫に当たることからも、東三河が持つ歴史の古さが窺われます。

「穂別」の「別」は古代の姓(かばね)のひとつで、皇族出身者が地方に下り、地名を冠して用いたのが初めとされます。東三河が穂の国とされるのは、穂別の穂や実体が不明瞭な穂国造の穂に由来しているのでしょうが、穂の名前は何が元になっているのか考えてみましょう。

「牛窪記」には本宮山下に秦氏が多いと書かれています。本宮山下とは穂ノ原(豊川市市田町本野原)を中心とした現在の豊川市一帯を指しているものと思われます。本野原=穂ノ原ですね。そして穂国の地名は「穂ノ原」に由来すると一般的にはされています。また本宮山から流れ出る川が宝川すなわち穂の川です。


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本宮山の位置を示すグーグル地図画像。


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穂ノ原一帯を示すグーグル地図画像。

穂ノ原、本野町と言った地名があります。本野原は穂ノ原の西側にあります。

別の見方もありそうに思えます。本宮山の国見岩は大己貴命が 穂の国を造る際、この岩から国見をしたことに由来すると言う見方です。大己貴命は大国主神の別名ですが、「日本書記」では大己貴命が共に国造りをしていた少名彦命が常世に行ってしまい、自分一人でどうこの国を治めるか途方に暮れていると、海から浮かび来る者が「私なしにはおまえはこの国をよく治められない」と言った。「あなたは誰かと」大己貴命が問うと「私はお前の幸魂奇魂だ」と答えた。

大己貴命が「あなたはどこに住みたいか?」と聞くと、「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」と答え、この神が大三輪の神でした。大三輪の神すなわち現在の大神神社の主祭神は大物主神(配神は大己貴命と少名彦命)です。「日本書記」ではこの文の少し前において、「一書に曰はく、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命」と記しています。大物主神と大己貴命が同じ神かどうかは現在のテーマとは関係ないので、ここでは検討しません。

さてそこで、穂(ほ)は優れている、素晴らしいを意味し、大和の三輪山は、「新撰姓氏録」では「真穂御諸山」(まほみむろやま)と記されています。「古事記」では倭健命、「日本書紀」では景行天皇の作とされる以下の歌があります。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

大和は国々の中で最も素晴らしい場所だ。重なり合う青垣のような山々に囲まれた大和は美しい。

ここから何が想定されるでしょうか?大己貴命が 穂の国を造る際、(実際には大己貴命が東三河に勧請された際)真穂御諸山の「穂」を持ち込んだとは考えられないでしょうか?さらに、豊橋市石巻町字金割1(下社)には石巻神社が鎮座しており、祭神は大己貴命、かつての地名は八名郡美和村神郷で、これは美和神社(三輪神社)の美和でした。大和の三輪山の影響をこれだけ受けていることからして、穂の国とは優れた素晴らしい国を意味すると推測されるのです。

以上から美称であった「穂」がいつのまにか国名のような扱いになってしまい、穂の国となったとも推定されます。三重県は倭姫命伝説を引用して「 美し国」(うましくに)と称していますが、古代からうんと一般化していれば伊勢国も美国(美国は米国ですが…)になったかもしれません。

ところで、秦氏を象徴するのは豊前国に見られるように「豊」です。そして秦氏の存在する東三河には豊を冠する地名が数多くあります。加えて「穂ノ原」に相当する本宮山下には秦氏が多数いたとされています。本宮山下の「穂ノ原」は、本来「豊の原」すなわち秦氏の原だったのかもしれません。

以上から、「豊の原」が転じて「穂ノ原」になり穂国となったとの推論もあり得そうです。それが正しければ本記事のテーマと合致して実に好都合なのですが、現状では可能性の一つに過ぎません。いずれにしても、穂の国の地名は本宮山麓一帯に由来していると見て間違いないでしょう。(注:穂の国の地名由来は他にもありそうなので、別途書く予定です)

第9代開化天皇の時代に朝廷別王は三川の穂別の祖となりましたが、「先代旧事本紀」巻十国造本紀の穂国造条には、第21代雄略天皇の時代に葛城襲津彦4世孫の菟上足尼命(うなかみのすくね)が穂国造に任命されたと記載されています。

穂国造任命の時代が遅い点に疑問もあり、加えて他の文献に穂国造や穂国の存在は記載ありません。お隣の西三河においては第13代成務天皇期に、知波夜命が三河国造に任命されています。これらから、穂国造や穂国の存在には疑問符が付けられているのです。

一方、7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評(ほのこおり)と記載された木簡が出土しています。評とは古代日本における行政区域の単位で、大宝律令制定以降は「郡」となります。つまり穂国の実態は宝飯郡に等しいもので、国ではなく穂の原に政庁を置いた郡レベルの存在であったと想定されます。

三川国穂評(ほのこほり)だったものが、8世紀の律令時代になり穂の一字は好ましくないとされ、穂は寶飫(ほお)郡に変更されます。後に寶飯(ほい)郡と誤記され、現在の宝飯郡となりました。いずれにしても古代における東三河の支配者は、前期の王族系(朝廷別王)から後期の葛城系(と想定される菟上足尼命)に交替した、或いは二つの系統が並立していたことになります。

                   東三河の秦氏 その3に続く
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