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東三河の秦氏 その5


前回で検討した幡太郷はやや広域的な秦氏地名と考えられますので、もう少し地域が狭まった秦氏地名を拾っていきます。新城市には小畑と言う地名があります。小畑の唐土神社(鎮座地:新城市小畑字荒神ヶ入1)は大年神(おほとしのかみ)の神裔である曽富理神を祀りますが、大和岩雄氏は大年系統の神を秦氏系としています。


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小畑の唐土神社を示すグーグル地図画像。

さらに曽富理神は、宮中で祭祀される園神・韓神二座のいずれか一座ともされています。秦氏地名の場所に秦氏系の曽富理神が祀られ、それと同神かもしれない園神・韓神には深い意味や由来がありそうですね。唐土神社の社名は、相模原市緑区小渕(旧藤野町小渕)の三柱神社に祀られる唐土明神(秦氏の氏神)と共通していそうに思えます。

小畑と唐土神社、祭神を総合して考えれば、ここは秦氏系の土地であったと理解されます。小畑の地名も小さな畑に由来するものではなく、かつては小幡だったのでしょう。ちなみに、「富士山麓の秦氏 その27」にて書いた都留市桂町鹿留の古渡(こわた)も以前は「小幡」でした。しかも小畑の南には大幡の地名もあり、小幡と大幡で対応関係にあると想定されます。

東三河ではありませんが、岡崎市には秦梨町(旧額田郡秦梨子郷)と言う地名がありました。また岡崎市の総持寺には稲荷社(築山稲荷)があります。調べたところこの稲荷社はかつて完(或いは宍)秦築山稲荷と称されていたようです。

次に、地図で花田町の西隣りをチェックしましょう。牟呂町とあります。


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牟呂町を示すグーグル地図画像。

牟呂町には牟呂八幡社が鎮座しています。行ってみたら思いのほか大きな神社でした。

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参道から鳥居越しに見る社殿。

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もう一枚。広大な敷地ですが、写真ではその雰囲気を表現できません。

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解説板。内容の概略は以下の通り。

由緒:当社は文武天皇元年(697年)の創立と伝えられ、従五位上牟留天神を祀っていた。文治2年(1186年)境内に武神として八幡大菩薩を併祀した。建久2年(1191年)鎌倉から八幡神を勧請した。貞応元年(1222年)鎌倉将軍の命により鶴岡八幡宮にならい改造をし、牟呂八幡宮となった。(牟呂八幡社と牟呂八幡宮の表記があります)

さて、牟呂町の名前は牟呂八幡社に由来する、或いは牟呂に八幡社を勧請して牟呂八幡社になったと思われます。では、牟呂の名前自体はどこに由来するのでしょう?

ここで考慮すべきは、東三河は熊野地方との関係が深い点です。平安末期から鎌倉初期にかけて、熊野信仰が和歌山県からもたらされました。(注:牟呂八幡社の由緒にある三河国神名帳が編纂されたのも平安末期です)その結果、この地には何社かの熊野神社が鎮座しています。だとすれば、地名も同様に和歌山から移植された可能性があります。

その視点で見ると、牟呂町の牟呂は和歌山県牟婁(むろ)郡の牟婁が移植されたとも推測されます。牟婁郡に関しては以下Wikipediaより引用します。

古代に国造が分立した時代には、牟婁郡の一帯は熊野国の領土であった。牟婁郡の名が歴史上初めて登場した時期は孝徳天皇の在位中(645年~654年)であり、当初は今の北牟婁郡を含まなかった。この時期に、熊野国は紀伊国に編入され、牟婁郡となった。


同様に、花田の地名も羽田から転じたのではなく、どこかから移植されたのでしょうか?牟呂同様、和歌山県の前提で考えてみます。和歌山県日高郡みなべ町には埴田(はにだ)と言う地名があります。花田(はなだ)と埴田(はにだ)。同じナ行のお隣であることから、花田の元は埴田であり、熊野信仰と共に豊橋に移植された可能性があります。

花田の地名に関して、さらに別の可能性もあります。一つは既に書いたように羽田(幡太)が転じて花田になったもの。もう一つは長山熊野神社(鎮座地:豊川市下長山町西道貝津87番地)の神主神保氏と同じ惟宗朝臣を名乗る花田氏に由来する可能性です。花田姓で検索すると、愛知県全体で157人中、豊橋市が14人、豊川市と新城市が各11人と東三河に集中し、それ以外は全て一桁の数字で(名古屋市の場合、各区で比較しています)、この推測を一定程度裏付ける結果となりました。

惟宗氏は秦氏系とされ、神保氏と花田氏は秦氏の流れを汲むことになります。以上の検討から、羽田町と花田町のいずれも秦氏に関連することになりそうですが、そうは問屋が卸しません。調べたところ花田町は異なっていました。以下Wikipediaより引用します。

1889年(明治22年) - 町村制施行。渥美郡の花ヶ崎(はながさき)村と羽田(はだ)村が合併、渥美郡花田村が発足。


花田町の町名は花ヶ崎の花と、羽田の田をくっつけて花田としたものとなります。その意味では秦氏と関連があるとも言えますが、残念ながら随分安直な地名由来になってしまいました…。いずれにしても、豊橋市においては、当初秦氏系が根を張っていたものの、熊野信仰の伝播に伴い紀伊国(和歌山県)からの入植者たちとその地名(牟呂)が優勢になったと考えられます。このため、羽田村の範囲が狭まったのではないでしょうか?

東三河の秦氏を検討する上で難しい問題の一つがここにあります。秦氏の東三河への入植と、熊野信仰の伝播が混じり合ってしまい、切り分けられていないのです。この問題のみならず、秦氏と徐福伝承、天照大神に関連しそうな地名の存在、持統上皇の東三河行幸の謎、物部氏・出雲族の存在などが相互に絡み合って極めて錯綜した状況にあるのが東三河と思われます。これらをきちんと整理して一定の視点に収められるかどうか、考えただけでも頭が痛くなりそうです。

                  東三河の秦氏 その6に続く
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